今年も甲子園で夏の高校野球が開幕した。
例年だと、大会が大詰めに差し掛かるまではさしたる関心も持たずに結果だけ眺めている、ということも多いのだが、今年は地方予選から社会的に議論を呼ぶような話題が出てきたこともあって、いつもよりはちょっと関心高め。
そんな中、2号連続で甲子園特集を組んでいたNumber誌の最新号が届いた。
Number(ナンバー)984号「夏の奇跡の物語 甲子園旋風録。」 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2019/08/08
- メディア: 雑誌
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今回は甲子園を「旋風」で沸かせた学校やその選手たちにスポットを当てた特集、ということで、昨年の金足農業(&吉田輝星選手)に始まり、1983年のPL学園(1年生の桑田、清原両選手)、2007年の佐賀北、2015年・早稲田実業(清宮幸太郎選手)、さらには2004年の駒大苫小牧や1979年の浪商といったところまで、懐かしいエピソードが取り上げられている。
複数の優勝メンバーが高校野球指導者の道に進んだ佐賀北高校の話などは、前号に続いて教育的な側面も見え隠れするのだが、全般的には一つ一つの試合の振り返りや、チームに勢いがついていく過程を当時の関係者が回顧する、というスポーツ雑誌にありがちな構成で、前号(以下リンク参照)に比べると予定調和的で落ち着く中身だった。
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そんな中、異彩を放っていたのは、Number誌が誇る名ライター・鈴木忠平氏*1の「佐々木朗希と大船渡旋風1984」という記事である。
自分も微かな記憶しかない*2、1984年の選抜高校野球での大船渡高校の快進撃。そしてその原動力となった小柄な左腕エース・金野正志投手の「異才」としてのエピソードを、当時バッテリーを組んでいた吉田亨氏(後に母校の監督にも就任)や他の当時のメンバーが語り、悲願の「三陸鉄道開通」のタイミングとも重なる中、一家総出で応援に行く地元の人々の熱狂が鮮やかに描かれる*3。
中国地区王者の多々良学園を初戦で完封、日大三島に1失点完投、準々決勝で明徳義塾を完封で下して、岩手県勢初のベスト4。
誰にも目を留められることなく毎晩黙々とランニングをしていた野球部員たちが、一躍地元の大スターになって迎えた夏。
だが、そこでエースを襲った悲劇・・・。
この記事の中に、主役である金野投手本人のコメントは一切出てこないから、あくまで周囲にいた人々の「証言」が全てなのだが、夏の予選も苦しみながら一人で投げ抜いて甲子園に出場したエースの球歴は、六大学の名門チームに進学したところで途絶える。
当時の大船渡高校監督、佐藤隆衛氏による最大級の絶賛と、わずかな悔悟の弁。
「金野は教えようとしても教えられないものを持っていました。ある種の天才でした。監督が考える以上のことを考えていた。」
「もっと科学的にやれば、壊さずに済んだかもしれません。でもね・・・、彼しかいませんでしたから。甲子園に行こうと思うなら、彼を投げさせないということは考えられなかった。私は今も、球数制限とか、そういうことには反対です。」(30頁、強調筆者、以下同じ。)
そしてそのエピソードと、「エースが投げなかった」今年の決勝戦の後に吉田亨氏が語った、とされる以下のコメントが見事なまでに交錯する。
「僕はね、これで良かったと思っているんです。公立校のエースが壊れるケースは多いんです。まして160㎞を投げる投手というのは、トミー・ジョン手術を宿命づけられていると言われているそうです。難しいですけど・・・、これで良かったんだと思います。」(31頁)
鈴木氏の記事が秀逸なのは、こういったコメントや、「(佐々木投手という才能に対する)國保監督の信念」も伝えながらも、安易に”将来があるから仕方ない”ムード一色にはしていないところで、「高校野球をやっている以上、試合に出たい、投げたいという気持ちはありました」という佐々木投手本人のコメントと、その背景にある「9歳の春」から今に至るまでの「2019年のバッテリー」のドラマも鮮烈に描いている。
記事では、佐々木投手と長年バッテリーを組んでいた及川恵介捕手が涙を拭って語ったコメントに続けて、
「どんな結末であれ、たとえ空虚なものだったとしても、エースの未来のためであるならば、彼らに何が言えるだろう。佐々木朗希と仲間たちの定めを、受け入れる以外にどうすることができただろう。」(31頁)
というフレーズを並べて”締め”ているのだが、このフレーズほど、今回の一件をめぐるモヤモヤを的確に表すものはあるまい。
途中から著者の繊細な文章表現力と絶妙な構成が涙腺を刺激してやまなくなるような、ノンフィクションとしては間違いなく一級品の記事。
もしかしたら、記事を書かれた鈴木氏も、最初取材を始めた時には、35年前の英雄と佐々木朗希投手が、「甲子園」をかけた舞台でこんな形でリンクすることまでは想像されていなかったのかもしれないが、事実は小説よりも奇なり、目の前で起きることが一番ドラマチック、という世の中の摂理が、こういう奇跡の作品を生み出すんだろうな、と思ったところである。
なお、この記事を読んでしまうと、もはや「決勝戦不登板をどう思うか?」という話はどうでもよくなってしまうところはあるのだが、予想通り、Number執筆陣4人(鷲田康、赤坂英一、石田雄太、中村計の各氏)が、それぞれの立場からコメントを出しておられる。
自分の思っていることは、先日のエントリー(以下)に書いたとおりなのだけど、その観点から言うと、
「國保監督は自らの采配を、昨今のプレイヤーズ・ファーストか勝利至上主義かという議論に準えて、その旗印にされるのをよしとしているわけではないのだと思う。つまり國保監督の采配を英断だと讃えるのも疑問だと批判するのも、じつは似たり寄ったりだという気がしてならないのだ。」(33頁)
と、「稀有な才能を預かる監督にしかわからない思考」をあれこれ言うのは「無粋」だ!、と喝破する石田雄太氏や、
「投球過多問題を考えるとき、八木*4の取った態度は一つの答えになっていたように思う。そもそも『勝利』か『選手の体』かという二者択一で考えるから無理が生じるのだ。その二つは対立項ではない。むしろ協調し合える事項なのだ。」(33頁)
とし、「勝利のために温存した」という言葉を添えるべきだった、とする中村計氏のコメントには共感できるところが多かった。
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結局、何が正しかったのか、ということは当事者にも最後まで分からない話だとは思うのだけれど、佐々木朗希投手や一緒に戦った選手たち、そして國保監督や来年以降の大船渡高校の野球部の「その後」が実りあるものであればあるほど評価してくれるのが「世間」というものだから、「2019年7月25日の決勝戦」がポジティブなエピソードとして語り継がれるようになるために、全ての関係者に、前向きな「その後」が訪れることを願うしかないなぁ・・・と思うところである。