今日の日経新聞1面に
『顔なき社会−匿名の暴力・上』というタイトルのコラムが掲載されている。
「楽天からのお年玉」騒動、
尼崎市の「誹謗中傷事件」と並んで取り上げられているのが、
「経済産業省・谷みどり消費経済部長のブログ集中砲火」事件。
「ネット利用が生活の一部に組み込まれる中、その匿名性は個人の胸元にも攻撃を仕掛ける」*1
という書き出しで始まり、
「電気用品安全法」の記事をめぐって集中砲火を浴び、
「大手掲示板サイト」に谷部長を批判するコーナーまで登場した件、
そして、
「規制を決めた時期が誤解されるなど事実無根の話でもネット上に書き込まれると、いつのまにか事実として扱われてしまうことに驚いた」
という谷部長のコメントの後に、
このブログが開設から3週間で閉鎖されたことが記されている。
この日経のコラムでは続いて、
「内部告発に代表されるように、匿名には立場の弱い人が正義を主張できるメリットがある。しかし、ネットの匿名性を隠れみのに無責任な発言が飛び交う社会が健全であるはずがない。」
と述べられ、最後は、
(次回以降)「匿名の魔性を暴く」という言葉で締めくくられている。
実際、谷部長のブログが炎上しているさなかに、
「ボツネタ」経由で覗いてみたら、
確かにものすごいことになっていた。
谷部長といえば、10年以上前、「通商白書」を執筆されたのを機に脚光を浴び、
大学の学園祭でどこかの団体が講演を企画していたのを覚えているが、
久しぶりに名前をお見かけしたと思ったら、
こんな騒動の渦中にいたとは、何とも・・・、といった感はある。
「電気用品安全法」が悪法か否かについて、
自分は論じるだけの前提知識を持っていないのだが、
仮に“悪法”だったとしても、
それは政策の当否という観点から論じるべき話であって、
一公務員に批判を浴びせる話ではない*2。
なので、ネットユーザーの怒りを駆り立てる何らかの正当な“燃料”が
あったのだとしても、「行き過ぎ」という批判を受けることは、
免れ得ない事実だと思われる。
だが、それを一概に「匿名社会の問題」という文脈で論じることが
果たして妥当なのだろうか?
“炎上”したコメント欄にしても、
“炎上”したスレッドにしても、
その中には冷静かつ正当な“批判”はあったはずで、
そのような健全な批判までも「匿名=悪」という名で押し込めるべきではない、
というのが一点。
また、仮に匿名によるコメントの多くが誹謗中傷に類するもので、
それによって攻撃された本人がダメージを受けるようなことがあるとしても、
その原因を「匿名性」だけに求めるのが果たして妥当なのか、
というのが二点目。
一点目に関しては、上記コラムでも区別して論じているつもりだろうが、
仮に「何らかの規制が必要」という論調に発展したときには、
正当な批判までもが“一網打尽”に封じ込められることになる、
ということを見過ごすことはできないだろう。
二点目に関しては、「匿名性」の問題以上に、
“情報を受け止める側の意識”に目を向けるべきではないか、と思う。
1000以上ものコメントの中には、
“前のコメントに釣られて”コメントしただけのものも
多数あったことだろう。
某掲示板のスレッドの書き込みにしても然りである。
本来、情報を取捨選択して対応する、
という“基本”を一人ひとりのネットユーザーが守っていれば、
「匿名」による凶暴な“攻撃”がなされたとしても、
さほどの脅威にはならないはずであって、
にもかかわらず、現在のような“不健全”な
状況が生み出されているのは、
“安易に情報に飛びつく”受け止める側の意識に
問題があるように思われるのである。
つい最近まで巷で騒がれていた「ガセメール事件」を見るまでもなく、
匿名社会だろうが実名社会だろうが、
情報を受け止める側の意識が低ければ、
上記のような“不健全”さが改善されることはない。
それに、今はたまたま“ネット”という場が
「匿名社会」の代表例のようになっているが、
仮にネット上の匿名性を排除したとしても、
この世から「匿名社会」が消えることはないといってよい*3。
むしろ、某巨大掲示板のような場は、
“情報の取捨選択”“誹謗中傷との付き合い方”を学ぶ上での格好の教材として
活用すべきなのであって、
その「匿名性」ゆえに一概に批判するのは、
見当違いの議論というべきではないだろうか*4。
明日以降、日経新聞のコラムがどういう方向に筆を進めていくのか、
自分には予想しようもないのであるが、
今日のコラムを読む限り、ちょっと“嫌な感じ”がしたので、
以上、書いてみた。
ちなみに、自分自身が匿名でブログを書いていることもあるが、
「匿名文化」のメリットとデメリットのどちらが大きいか、
と問われれば、自分は迷わず前者を挙げる。
発言の中身よりも先に、名前や肩書や経歴に目がとらわれてしまう
オフラインの世界を離れて、
個々人が自由に発言し、それを通じて人々が学びとることは
非常に多いと思うからだ。
だが、この世には、とかく流れている根も葉もない噂話を
自分の目で確かめもせずに信じ込む者が少なくない。
(かくいう自分も他人のことを言える立場ではない・・・。)
ネット上の過激な言動に目くじらを立てる御仁が多い今、
「匿名社会」という“聖域”を守っていくためには、
“情報を疑う”気持ちを常に忘れずに、
日々を綴らねばならぬと思う、今日この頃である。
*1:2006年3月7日日経新聞朝刊第1面。以下の引用はすべて同じ。
*2:ただし、政策担当部署にいる現役官僚が情報を発信する際の手法として“ブログ”というツールを用いるやり方が果たして正しかったのか、ネット社会との距離のとり方、情報の発信の仕方が適切だったのか、“炎上”したあとのフォローの仕方が妥当だったのか、といった観点からは賛否両論あるところだと思われるが。
*3:トイレの落書き、怪文書、暴徒と化した群集・・・。古今東西、誰が流したかしれない根も葉もない噂話や流言飛語の類は常に人を悩ませ続けているのであって、これは今に始まった話ではない。ネット上の書き込みだって、最終的には誰が書いたか特定できるわけだから(書く方がどう思っているかは知らないが)、週刊誌の匿名記事とそんなに大差があるわけではないように思う。
*4:もっとも、人々の意識が本当に高くなれば、「名誉毀損」などという犯罪も、プライバシー侵害の範疇でしか成立しなくなるはずで(明らかな嘘を嘘と見抜き、柳に風の如く受け流せるだけの力を個々人が持っていれば、いわれなき誹謗中傷によって外部的名誉や名誉感情が低下することはありえないはずだからだ。)、それがいまだに残っているということは、“意識の向上”を望むのがそもそも難しい、ということの表れなのかもしれないが。