「野心家」

社会人学生だった頃、
“交錯領域”に強い関心を持っておられた研究者の卵の方が、
ゼミなどでいろいろと見解を披露されるのを聞いて、
「まぁ、仕事に関係することはないだろうけど」と、
興味本位で眺めていた自分。


まさか数年後、
その方の論文と格闘することになるとは思わなかった(笑)。


ふとしたきっかけで、
ノウハウも経験も蓄積されていない領域の事案が、
“生で”降ってくることがある、というのがこの業界の常。


でも、頭に汗かいて、
一つことがらを片付けると、
ほんの少し賢くなったように思える。


だから法務の仕事は面白い。
そして、法律と向き合うということはかくも面白い。


解釈と“あてはめ”次第で、
道なき世界に新しい道を拓くことができる。


もちろん先立つのは素のままの“現実”だが、
そこに論理を補完することで、
「法に裏打ちされた実務」として、
堂々と突き進んでいくこともできる。
そして、その逆もしかり。


裁判所を説得するのは結構骨が折れるだろうが、
現実には、そこまでいかなくても、
目の前にいる相手を説得できれば片が付くこともある。


法律の世界とは、かくも創造的かつヤクザなる世界なのであり、
その使い手はさしづめ、
現代のイリュージョニストでも呼ぶのがふさわしい。


法律学を学ぶ、ということは、
そんな数々の汗と涙とほんの少しの知恵の混ざったイリュージョンを
読み解く作業だと思っている。


純粋な“学ぶこと”の面白さに加えて、
法というフィルターを通して生々しい現実と向き合い、
「論理」という化粧を添えて、普遍的なモノへと昇華させる、
というプロセスを味わえることに、
自分は最大限の面白さを感じる。


ロジックだけでもない、
イデオロギーだけでもない、
複雑怪奇な世の中の有様にもっとも親和的な学問、
それが法律学といっても良いのかもしれない。


自分自身は、
日常の中で給料袋の中身なんて大して気にしちゃいない。
時々話のネタにはするが、何だかんだいって、
自分ひとり食って、
好きな本が買えるだけの金が手元に残ればそれでいい。


出世だの、勤め先の大きい小さいだの、なんて、
もっとどうでも良いことだ。
そんなところにあくせくして、
周りの顔色うかがいたくなる心情は良く理解できるが、
(自分もかつてそういう時期がなかったとは言わない。)
世の中の序列なんて不祥事一発で変わる時代、
長い眼で見れば、そこにつぎ込むエネルギーは、
無駄なものというほかない。


そういう意味での「野心」は、
今の自分には皆無に等しい。


だが、自分が生きて動ける限り、
よき「法律の使い手」であり、
「論じ手」であり続けたい、
そして、そのためにいつまでも学び続けたい。
そういうこだわりだけは持ち続けている。


小さな、ささやかな「こだわり」だが、
それは絶対に譲れない「こだわり」でもある。


そういう「こだわり」を貫き通したい、
という気持ちを抱き続けることを「野心」と呼ぶのであれば、
たぶん、自分は最大の「野心家」なのだろう・・・。



この何年か、
自分自身の描く夢が迷い道に差し掛かるたびに、
こんなふうに、何時も同じことを考えている自分がここにいる。


「まっとうな夢ならいつか叶うだろう。」


同じ季節がめぐってくるたび、
そう信じて、やっている。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html