またしても“AI煽り”

最近、そうでなくてもこの手の記事が多くて辟易しているところに掲載された、またか、という感じの記事。

人工知能(AI)の利用が広がるにつれ、弁護士や弁理士など企業法務に関わる士(サムライ)業が「定型的な独占業務はAIに取って代わられかねない」と危機感を強めている。起業して新事業を始めたり、いち早くAIを取り入れたりするなど、業務の見直しに取り組む動きも出始めた。」
「法律系サムライ業の代表ともいえる弁護士といえども、AIの影響からは逃れられそうにない。米国では訴訟での証拠収集や不祥事調査でAIが使われ始め、弁護士がAIを補助者として利用する事務所も登場した。」(日本経済新聞2017年9月25日付朝刊・第13面)

先端技術志向の強い人々が夢を語ること自体は否定しないし、そういう夢を持つ人々を盛り上げるために、多少色を付けた報道があってもいい、と個人的には思っている。
だが、実際に試験導入され、目の前で動き始めた「AI」と、メディアで語られ、煽られる「未来の姿」との間には、あまりにギャップがあり過ぎて、昨今の論調には、80年代のSFよりも現実感がない。

そして、日々の足元の仕事に目を移せば、定型性のかけらもない有象無象の相談事とかトラブルに取り囲まれ、間断なきビジネスジャッジを求められるわけで、AIでも何でも、手を借りられるなら借りたいけど、とてもとても・・・という状況である。

もちろん、企業の中で仕事をする人にも、外で“サムライ”を演じている人々にも、柔軟性のない定型的なアウトプットの出力が生業となってしまっている人は少なからずいるから、“進化型AI”の完成を待つまでもなく、自動化・システム化の波に飲まれてしまう層は必ず出てくるだろう。

一方で、人の手に、あるいは人の頭に代わるツールが出て来て、それまでやって来たことが置き換えられるたびに、浮いた労力を注ぎ込んでさらにプラスの価値を生み出せるのが知的労働者の特権だから、“サムライ”という職業の中の人をひとくくりにして、同じ理屈を当てはめようとするのは賢い論理とは思えない*1

ツールを使いこなしてさらに高みに上る人もいれば、そうでない人もいる。
それだけのことなんだから騒ぐなよ(笑)っていうのが、いつも思うこと。

あと、これだけ通信手段が発展して、あらゆるドキュメントをデジタルで作成できるような時代になっても、いまだに「手書き」文化も、「手紙」文化も根強く残っているわけで、社会全体が時代の先端に追いつくまでには膨大な時間がかかる、という現実もある。

自分の周りの狭い世界だけ見回して妄想を膨らませている人を、近頃、同業者の中にも見かけるようになってしまったのは、いささか残念なことではあるのだが、今必要なのは、現実を素直に眺める目と、地に足の着いた議論。そして、いつの時代にも変わらない仕事の本質を日々自覚し、見つめ直すことではなかろうか。

メディアが「AI時代の到来」を表層的な視点で取り上げれば取り上げるほど、そう思えてしまうのである。

*1:弁護士の場合、仕事の中身以前に、法廷で訴訟代理ができるのが「人間」だけで、いかに優れた人工知能が開発されても、それは“補助者”として活用できるに過ぎない、という極めて大きな“参入障壁”があるだけに、なおさら職業としての地位が盤石、というところはあるのだが、それを捨象してもなお、である。

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