自分くらいの歳の人間であれば、
「思い出のW杯は?」と聞かれて、
メキシコ大会(86年)とか、イタリア大会(90年)とか、って言えれば
少し“年の功”が入ってカッコいいのかもしれないが、
残念ながら、その頃のW杯を語れるほど、
自分の記憶力は良くないし、思いだせる記憶もそんなにはない。
もちろん、サッカー少年である以上、マラドーナくらいは知っていた。
足が短いがそこそこ巧いヤツがクラブに入ってくると、
“マラドーナ1号”“マラドーナ2号”という
ナンバリングをされるのが常で、
今考えると途轍もなく名誉な話なのだが、
当時は一種の冷やかしのための称号でしかなかったような気がする。
おそらく、1980年代後半以降に生を受けた方々の多くは
想像できないのかもしれないが、
当時、サッカーという球技は「やるスポーツ」ではあっても、
「観るスポーツ」では全くなかったのだ*1。
いや、欧州や南米等のプロリーグのダイジェスト番組等はあったはずだから、
観ていた大人は多少なりともいたのかもしれないが、
少なくとも“お茶の間で観るスポーツ”ではなかったように思う。
ゆえに、テレビ中継もごくごく限られた試合しかやっていなかった。
イタリア大会の当時買ったばかりのビデオを使ってみたくて、
西ドイツ対アルゼンチンの決勝戦を録画してみたりもしたが、
あの試合だって、たぶん生中継ではやっていなかったはずだ*2。
それに、かつてのチームメイトたちが“現役”でボールを蹴っているさなかに、
テレビにかじりついているだけなんて、とてもじゃないが耐えられなかった。
大きな試合を見れば見るほど、無性にボールが蹴りたくなって、
でもボール遊びする仲間も場所もない、
そんな環境が恨めしく思えてしまうから・・・。
そんなわけで、自分の記憶の中でワールドカップが始まるのは、
アメリカ大会(94年)からである。
◆◆
話は本大会の1年以上前に遡る。
ちょうどサッカーを取り巻く環境が激変していた
Jリーグが開幕を目前に控えた時期。
子供の頃連れてってもらった“世界のオクデラ”が出ている試合でさえ*3、
観衆が数百人いるかいないか、という中でやっていたのを
目の当たりにしてきた自分としては、
“プロリーグ”なんてものが果たしてこの国で成功するのかどうか、
半信半疑だったのだが、
華のある数名のJリーガーと、
リーグ側の巧みなメディア戦略、そして“悲願のW杯”という合言葉が
追い風になって、評判は上々だった。
そんな中、物好きな友人からもらった一枚のチケット。
国立競技場でのW杯一次予選、日本対バングラデシュ。
高3の新学期が始まった頃であった。
今なら(笑)が付きそうなカードだが、
それまでの代表チームといえば、韓国はもちろん、
香港だのインドネシアだの、といったチームとでも
“いい試合”をやってしまうレベルだったから、
観に行く側としては、結構真剣。
それに、その頃は、メディアもまだ、“謙虚”だったから*4、
毎試合が“絶対に落とせない戦い”だったし*5、
勝つにしても得失点差が重要、と散々言われていて*6、
「日本はアジア杯チャンピオンだぞ!」と熱く語る友人でも、
「2、3点差は付けて勝てればいいなぁ・・・」と呟くのが限界だった。
それが蓋を開けてみたら、取るは取るは・・・・。
終わってみれば、今でも忘れない8−0のスコア。
今の代表チームに比べれば、
技術レベルがそんなに高かったわけでもないだろうし、
体力的にも見劣りするかもしれない。
だけど、あの頃の代表チームには、
何点取っても攻め続けるがむしゃらさがあった。
日本リーグの試合に比べれば人は入っていたけど、
それでも空席はまだまだ目立ったスタンドで、
お祭り騒ぎの中応援しているうちに、
自分がボール蹴ってた頃の忘れかけてたものを思い出したような気がした・・・。
代表の試合を実際に見に行ったのは、
後にも先にもそれっきりだ。
だけどそれで十分だった。
代表チームが1次リーグを圧倒的な強さで駆け抜けた後に*7Jリーグが開幕、
チケットをめぐって刃傷沙汰まで起こる狂騒の中、
ドーハでの最終戦ロスタイムに希望の灯火が消えるまで、
受験勉強なんぞそっちのけで、虜になって日本代表を応援した、
それが自分にとっての初めての“ワールドカップ”*8。
「代表が出たら追いかけてアメリカに行く!」とばかりに
夏頃から英語を必死で勉強したかいがあったのかどうか、
その後、受験の嵐も無事に通り過ぎ、大学生になった自分ではあったが、
当然ながら本大会出場24チームの中に“JAPAN”の文字はなく、
新生活の慌しさの中、半年前に考えていたことなど忘れかけたまま、
本大会は通り過ぎていくはずだった・・・。
◆◆
ふとしたきっかけで環境は変わる。
入学直後に勧誘されて以降、かかわり方が良く分からないまま、
しばらく顔を出したり出さなかったり、
という曖昧な関係を続けていた某団体の先輩方が、
過激なサッカー狂であることを知ったのはW杯開幕直後のこと。
「お前、この大会どこ勝つと思う?」と聞かれて
俄かには返答できなかった自分だったが、
たまたまその日、部室のテレビで流れていたダイジェストで、
アルゼンチンが快勝をおさめるシーンを見て、
「アルゼンチン!」と即答。
賭けは成立した(笑)。
その後、この呪われたチームがどういう結末を辿ったかは、
同世代のサッカーに詳しい方なら説明するまでもないだろう(苦笑)。
参加した残りの3名が、イタリア、ブラジル、スウェーデンと
見事に上位3チームを的中させたこともあって、
罰ゲームに極上のカクテルと合宿の幹事をやらされるハメになったのは
言うまでもない。
でも、その時まで取っ付きにくかった先輩方との距離感が
急に縮まったことで、
自分自身、大学に居場所を見つける一つのきっかけになったのも確か。
ゆえに、とても暑かったあの夏のプロローグとして、
よく覚えているエピソードの一つであるのは間違いない。
◆◆
それから4年後、フランスでのW杯。
“ドーハの悲劇”の直後はどうなるかと心配されたJリーグも、
新たなスターを発掘しながらスクスクと成長し、
“ジョホールバルの歓喜”*9を経て初出場を遂げた
我らが代表チームに、国中の視線が集まっていた。
“会社を辞めてフランスに乗り込んだのにチケットなくて泣いた”人々を見て、
当時、新入社員になったばかりの周囲の連中は
「信じられねぇ・・・」と嘲笑していたが、
それが4年前の話だったら、自分もさっさと辞表出して、
現地まで飛んでいただろう。
だが、その時にはもう、そこまで自分の国の代表には、
そこまで熱くなれない自分がいた。
会社に入ってから1年以上、テレビのない生活に慣らされていて、
かといって、ラジオ局すらまともにない地方では、
そもそも世の中の動きに付いていけてなかった、というのも事実なのだが、
それ以上に、“浮かれ騒ぎ”に付いていけない倦怠感に
自分自身苛まれていた、というのも大きかったのだろう。
代表チームに対しては、予選の時から感情移入できていなかった。
そうでなくても、モラトリアムを失う恐怖感に怯え、
しかもそれ以上に大きなものを失いかけていることに気付き始めていた時期。
4年前と同じようながむしゃらさで心の暗闇を吹き飛ばして欲しい、
と願った一サポーターの身勝手な期待を
ことごとく裏切り続けた我らの日本代表が、
聖地・国立競技場でUAEと不甲斐ないドローゲームを演じた瞬間、
自分の中で何かが切れたような気がする・・・。
ゆえに、その後のアウェーでの韓国戦は、
東京競馬場のターフビジョンで結果を見ただけだったし*10、
ジョホールバルでの例の試合も、
夜遅く家に帰ってテレビを付けたら、たまたま“あのシーン”にぶつかった、
それだけの話であった*11。
本大会はちょうど研修期間中だったから、
皆で集まって近所の広場で“パブリックビューイング”を体験したり、
ジャマイカ戦を見ながら
“会社のグチと代表チームのグチを同時並行的に語る”という
のどかな企画に付き合ったりしたが、
それでもラモスほど、いや周りの同期ほども熱くなれない自分が寂しかった。
◆◆
代表が早々と敗退した後の出来事として覚えているのは、
東京行きの終電が終わった真夜中に、「会いたい」と呼び出されて、
夜行で駆けつける車内*12でオランダ戦の実況を聞いたこととか*13、
集合研修の真っ只中に行われた決勝戦で、
フランス在住6年、自称“外交官の息子”の同期が、
持込禁止のはずの携帯用テレビを宿舎に持ち込んで*14真夜中に大騒ぎ*15、
挙句の果てに、フランス国歌の大合唱で叩き起こされた、といった
苦々しい(笑)エピソードしかない。
意外に、そういった出来事の方が、
後々まで覚えているものなのかもしれないけれど・・・。
◆◆
不思議なことに、節目節目で廻ってくるのがW杯というものらしい、
と感じたのは、それから4年後のこと。
再び戻ってきたモラトリアムの中で、
堪能した贅沢な時間。
キャンパスに行けば、
ゼミ室でもラウンジでもその話題で持ちきりで、
果敢にもパブリックビューイングに挑戦した生協地下食堂は、
毎試合、将棋倒しが危惧されるほどの興奮の坩堝。
街に出れば“青の行進”に巻き込まれて、
代々木から新宿駅前まで大行進・・・。
列島を覆った“狂騒”をシニカルに眺めながらも、
その4年前ほどの“不快さ”を感じなかったのは、
自身の成長の証なのだろうか・・・なんて思いつつ、
その先に待ち構えているであろう運命に、
期待を高ぶらせている自分もそこにはいた・・・*16。
◆◆
今大会、ちょっと距離を置きつつも、
純粋にW杯を観て楽しんでいる自分がいる。
ボールを蹴っていない自分を恥じるような歳では
とっくになくなっているし、
何かに頼らなければ日常の憂さを晴らせないような
弱さも今は消えている*17。
そして、今取り戻しつつあるのは、
毎日ボールを追いかけまわしていた頃の“向こう見ずな心”の方なわけで*18。
だから、なのだろう。たぶん・・・。
4年後、8年後、あるいはその後も、
世界が平和で、FIFAが潰れていなければ(笑)、
たぶんワールドカップは世界のどこかで開かれているはずだ*19。
その時、自分がどこで何をしているのかを予想するのは、
きっと、その大会の優勝国を予想するよりも難しいのだけれど、
その時までに、無謀な夢に挑んでいた頃の“向こう見ずさ”を取り戻せていれば、
きっと、童心に返って、もっともっと楽しく、
その時を迎えられているような気がする。
そうあることを願って、
あと1試合、“2006年のワールドカップ”を眺めることにしよう・・・*20。
*1:当時の花形球技と言えば、夏は野球、冬はラグビー。サッカーで注目される試合なんて、高校選手権と天皇杯くらいしかなかった。ワールドカップの予選で日本代表の敗退が決まっても、ラジオのニュースで一言結果だけ流れて終わり。そんな時代だった(イタリア大会の時は相手が北朝鮮で、しかも最後が平壌でのアウェー戦、という最悪の状況だったから、なおさら・・・だったのかもしれないが)。
*2:ちなみに、何年後かにその時のビデオを見たら、ドイツファンしか楽しめない、えらい退屈な試合だった(笑)(確かPK一発で試合が決まってたはず。)
*4:ブラジルに2点差付けて勝つ・・・なんて煽るコメンテーターも当然いなかった(笑)。
*5:それは今でも変わらないか・・・(爆)。
*6:同じグループにUAEとタイが入っていて、先に進めるのは1チーム。今考えれば何てことない組み合わせだが、これは当時の1次リーグの組み分けとしては最悪の部類に属するものであった。
*7:といっても、最後のUAE戦に負ければ・・・というレベルではあったのだが。
*8:余談だが、今大会、試合会場で「Go West」が流れているのを聞くと、当時ニッポン放送のW杯予選実況のテーマソングになっていたのを思い出して、無性に懐かしい気分になる。今はどうだか知らないが、当時はニッポン放送がラジオで全試合独占実況をやっていた。受験期直前で、夜中に堂々とリビングでテレビを見られる身分でもなかったから、当然部屋で手に汗握りながらラジオにかじりつくのが常態。最後の最後だけはW杯出場決定の瞬間を見届けたい、とリビングに下りて家族を叩き起こしてテレビを付けた(一人じゃとても見ていられなかった、というのもあるが・・・)。悲劇が起きたのはその約1分後。それ以来、大事な試合はなるべくひっそりと見るようにしている・・・。
*9:当時はそういう呼ばれ方はしていなかったと思うので、後でマスコミが勝手に付けたのだろうけど。
*10:確かその日のメインレースはアルゼンチン共和国杯だったような気がする。もちろん、結果が映し出された瞬間に場内にどよめきが起きたのは言うまでもないが・・・。
*11:さすがに、見た瞬間は少しは興奮したけど・・・。
*12:着くのが翌朝になるのが分かっていても電車に乗ってしまうあたりが、若かったよな、と・・・(タメイキ)。
*13:準決勝だったか準々決勝だったか・・・、いずれにしても途中で寝てしまったので記憶はおぼろげなものでしかない。
*14:もちろん、その時持ち込んで見ていたのはそいつだけではなかったが・・・。
*15:連帯責任で翌日皆大目玉。
*16:この記事を書いているうちに、過去4大会、ワールドカップが終わるのと相前後してわが身に降りかかるエピソードに一つの共通項があることに気付いたのであるが、まぁ、たぶんそれは本格的に訪れる夏のせい、ということにしておくことにしよう・・・(謎)。もちろん、今大会の後には何もない(はずである)。
*17:たぶん、憂鬱そのものは一生消えることはないだろうから、いつまた“弱さ”がぶり返すかは分からないのだが、そんなことは知ったこっちゃない。
*18:自分の置かれている状況を考えた時に、ホントにそれでいいのか!という突っ込みはこの際脇に置いておくとしよう・・・(苦笑)。
*19:次回大会の開催地には暗雲が立ち込めているらしいが・・・。
*20:今夜は完全に徹夜コースだな、こりゃ・・・。