共感。

日々刻々と北京五輪の競技日程が消化されていく。


この手の記事はちょっと油断すると賞味期限切れになってしまうのだが、競泳のように昼間に決勝レースが挙行される競技もあるし、夜にクライマックスが来る競技でも、普通の生活をしていると時差がないゆえにかえってリアルタイムで結果を見られない*1、それゆえ、記事を書こうにも後手後手に回る・・・という悪循環。


もっとも、このブログの読者の皆様の中に、自分如きが書くオリンピックのレビューを期待している方がいらっしゃるとは思えないし、自分自身も子供のころ(といっても幅は広く、ロサンゼルス以降アトランタくらいまで)とは違って、テレビに食らいついてまで見ようという気はさらさらない。


特に、最近のテレビ中継では、民放のみならずNHKまでもが、“競技を親しみやすく伝えるために”ブレイクするまでのストーリーや世界の強豪とのライバル関係、といった“手の込んだ(過剰なまでの)演出”をしてくれるものだから、始まる前の告知を見ているだけでお腹いっぱいになってしまう。


そんな告知と、終わった後に夜のニュースで流れるハイライト映像をひたすら見ていれば、何となくリアルタイムで“感動の瞬間”を目撃したような気になってしまうから、わざわざどこかに押し掛けてまで、手に汗を握ってライブ観戦しようなんて気にはなれないし*2、ましてや、専門サイトや現地メディアの情報をかき集めて・・・なんて気にもなかなかなれないのである*3



それでも、結果が出た前後での報道のトーンの変化とか、断片的な情報の中から垣間見える選手たちの表情にはやっぱり気になるものがあるわけで。


それも“国民的英雄視”され、あちこちのメディアで引っ張り回されるメダリストたちよりも*4、期待に応えられずに大会を去ることになってしまった選手たちのことは、どうしても気にしないではいられない。


大会前に散々煽られたあげく、負ければ同じ競技の他の選手や、(その競技が全滅なら)他の競技へ一瞬にしてメディアの関心は移ってしまう。


今大会で、これまでのところメディアの「期待度」と結果のギャップが一番激しかった競技といえば、柔道女子48キロ級の谷亮子選手、ということになるのだろうが、

「ママでも銅。よくやった」

と言ってもらえるのは終わった後の数日くらいで、その後新しい「主役」が続々と登場すれば、大会に出場していたことすら忘れられたかのような扱いになっても不思議ではない。



だが・・・


「参加することに意味がある」と言われた時代は今や昔。


競技数の増加や競技人口の広がりに伴い、予選や世界ランキングでの振い落としが以前にまして厳しくなっている今、五輪に「参加できること」それ自体に意味がある、と言える状況である。


そして、「日本代表」として大舞台に立っている選手たちの多くは、国内でその競技の頂点を極め、かつ、アジアの、あるいは世界の上位にランクされる実力と評価された人々であるのはいうまでもない。


いかに国民の注目が集まる大舞台とはいえ、そんな選び抜かれた選手たちの“価値”が、限られた機会でのパフォーマンスだけで全否定されてしまうことも稀ではないこの過酷な状況に、明に暗に「敗北者」のレッテルを貼られた選手たちがどう立ち向かうのか?



4年に一度の世界的イベントに比べればずっと小さな舞台とはいえ、人は多かれ少なかれ似たような状況に置かれることがありうるわけで、それは今の筆者とて例外ではない。


「共感」というのはあまりにおこがましいが、かといって、他人事とは思えない。


故に自分は、ニュースの片隅に押しやられた「敗者」が気になってならないのである。


期間中に言及する機会があるかどうかは別として、一度どこかで取り上げてみたいなぁ、と思うのであるが・・・。

*1:夜といっても、深夜になってまでやっている競技はそんなに多くない。その意味では、仕事が終わって家に帰ってから決勝種目が始まる(ただし種目によっては終わるのが早朝になることも・・・)アテネの方が、勤め人には優しかった。

*2:教員室に押し掛けてでも見ようとしてたソウルの頃が懐かしい。バルセロナの頃には部室にテレビがあったのでそこまではしなかったが(笑)。

*3:もちろん、一番の理由はそんな暇がない、ということに尽きるのだが。

*4:柔道の場合は金メダリストに限られるが。

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