どこまでが本当なのか?

ヤフーとグーグルの提携問題に関し、日本の公取委があまりにあっさりとGo!サインを出したことで、いろいろと言う人も出てくるだろうなぁ、と思ったらやっぱり日経紙の法務面で特集が組まれていた*1

公取委「容認」は妥当?」

という、ちょっぴりセンセーショナル目なタイトルで始まるこの記事。


米国の著名弁護士が、

「控えめに言っても、日本の公取委の判断には大変に驚いた」

と語れば、川濱昇・京大教授が

「高いシェアを持つメーカーが製造部門を統合するのと同じだ。製造以外の付加価値がよほど高く、商品で活発な競争が続くと証明できなければ競争制限的といえる」

と半ば本件が“クロ”に近いと言うが如きのコメントを残し、記事の結論としても、「事前相談制度の制約」*2を指摘した上で、

「もっとも、今回の提携容認が最終的な結論とまではいえない。」
「ヤフーとグーグルの提携が市場の競争を阻害するという証拠がもたらされれば、公取委が現在と違った行動に出る可能性は残されている。」

とまとめるなど、マイクロソフトの担当者が見たら泣いて喜びそうな記事である。


だが、今回の公取委の対応は、この記事が示唆するような“情報不足によるミスジャッジ”なのだろうか?


記事の中では、「米司法省が半年をかけて膨大なデータを集め、100人を超す取引先や経済学者と面談して意見を聞いた(さらに米上院の反トラスト法小委員会も各社の開発部門トップや広告主を招いて検討した)」のに対し、

「日本の公取委が2〜3ヵ月で判断した」

ことを問題としているようであるが、以前本ブログでも指摘したように、公取委のよどみない落ち着いた対応からは、事前相談の場における提携当事者の綿密な説明と、それに基づいた公取委内部での検討が行われたことが容易にうかがえるのであって*3、いかに相手が悪名高き公取委(笑)でも、「検討不足」的な評価をするのは失礼ではないかと思う。


記事では、ヤフーの別所直哉法務部長の「公取委を訪問したのは3回」というコメントも引用しているのだが、別に訪問しなくても、資料のやり取りや説明の補充はいくらでもできるわけで、これをもって“簡素”というのもどうかな、と。


もちろん、マイクロソフトの意見を聞いて判断したわけではない、という事実はあるのだろうが、「マイクロソフトがどんな主張をしてくるか」ということは、提携当事者も公取委も十分に予測できたはずであって、あらかじめ予想される批判も含めて事前相談の過程で検討されていた、と見るのが常識的な理解ではなかろうか。


そもそも、今回、公取委が業務提携を問題視していない最大の理由は、「検索エンジン」そのものがただのツールに過ぎず、問題とされる検索サービスの市場や、インターネット広告の市場の需要者との関係で、「検索エンジン」そのものが取引されるわけではない、という点にあるのだと思う。


そして、ヤフー側が主張しているように、

検索エンジン」によって得られる検索結果に独自の「味付け」をすることによって、検索結果や順位がグーグルのそれとは異なってくる」

のであれば、前記市場における競争減殺は起きえない、という判断に至ることも決して不思議ではない*4

検索エンジンで1社のシェアが非常に大きくなると、多方面に影響が言及する可能性がある」

というのが本記事の中での白石忠志・東大教授のコメントだが、だからといって、そこから想定される市場に関して独禁法上の問題が直ちに生じるわけではないし、白石教授ご自身も、おそらく本件が独禁法上問題だ、とまでは述べられていないはずだ。


想定した結論(本記事では「提携容認」への懐疑論)に持っていこうとして、文脈の異なるところから拾ってきた情報を散りばめるのが、この法務面に多いパターンだ、ということは重々承知しているのだが(苦笑)、今回もいろんなものを散りばめ過ぎて、結局、「何が本当なのか?」が良く分からなくなっているような気がするのは、自分だけだろうか。


公取委の判断にむやみに追従しない、というのは、メディアのあるべき姿勢だとは思うのだが、この記事に関してはちょっと・・・という思いは残る。

*1:日本経済新聞2010年8月16日付朝刊・第14面

*2:ここでは、守秘義務の縛りがあり、情報収集できる相手が限られていることが問題視されている。

*3:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20100729/1280900592

*4:記事の中では、「グーグルとの広告取引をやめたところ、検索結果表示で下位に追いやられた」という、“良く聞く話”も使われているが、これも、あくまで「検索エンジンで得られる検索結果にグーグルが「味付けした」が故の話」だと思われ、ヤフーが異なる「味付け」をすることができるのであれば、この文脈では問題とすべきことではない、ということになろう。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html