掛け違えたままのボタン。

もう見飽きた、というか、そろそろいい加減にしてほしい、と思うような光景が、神戸地裁で再び繰り広げられた。

兵庫県尼崎市で2005年4月、乗客106人が死亡したJR福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪で強制起訴された井手正敬元相談役(78)らJR西日本の歴代3社長の判決公判が27日、神戸地裁であった。宮崎英一裁判長は「事件の予見可能性はなかった」として全員に無罪(求刑禁錮3年)を言い渡した。」(日本経済新聞2013年9月27日付け夕刊・第1面)

検察官があえて“選んで”起訴した山崎正夫元社長に対してすら、完膚なきまでの無罪判決が出され、泣く子も黙る検察庁が地裁段階で早々と白旗を上げざるをえなかったのが、この事件である*1

「半径300メートルのカーブはJR西管内に2112ヵ所存在し、それ自体は一般的なもの」
「(当時、安全性を検証する必要性を感じていた社員もおらず)経営幹部が危険性を具体的に認識できる機会はなかった」
「(JR函館線の脱線事故後)JR各社で事故を契機にカーブへのATS整備を検討した事業者はいなかった」
「事故当時、管内のカーブの中から転覆の危険性のあるカーブを個別に判断してATSを整備していた鉄道事業者は存在しない」
(以上、日本経済新聞2013年9月27日付け夕刊・第14面)

といった判示は、山崎元社長に対する神戸地裁平成24年1月11日判決(http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20120406125345.pdf)で書かれている内容とほぼ大差ないし、今回の3社長は、山崎元社長以上に現場の業務から遠いところにいた人々だと思われるだけに、よほどの“ウルトラC”的法律構成がなされない限り、今回の結果も、最初から見えていたと言えるだろう。

強制起訴がなされたのは山崎元社長の判決が出る前のこと。
とはいえ、約3年半もかけて、最初から結果が見えているような訴訟をズルズルと指定弁護士に続けさせなければならないのが、今の検察審査会法なのだとしたら、それは“悪法”に他ならないのではなかろうか*2

1年半以上も前から、この制度に対して、明確に反対の論陣を張っている日経新聞は、またしても「強制起訴は見直しが必要だ」というタイトルの社説を掲載し*3

「強制起訴についても、審査する対象や議決に至った経緯の開示など、制度の全般にわたる見直しに取りかかるべきである。」

という提言を再び唱えている。

制度導入時にどの程度、このような問題に日経紙を含めた各メディアの意識が向いていたのか?、という点が気になるところではあるのだが、少なくとも現在の「強制起訴」の運用状況に照らせば、至極まっとうな意見だと言えるのではないかと思う。

残念なのは、山崎元社長の判決の時にも露呈した、被害者側との“温度差”が今回も埋まらなかった、ということだろうか。

判決直後に伝えられた遺族の声は、前回の判決時と同様に、

「JR西の主張だけが認められ、理解できない。どのように受け止めたらいいのか」
「亡くなった娘に報告できない」
(以上、日本経済新聞2013年9月27日付け夕刊・第14面)

といったもので、遂には、

「誰も事故の責任が問われず、司法の限界がはっきりした。大規模な事故を起こした組織の責任が問われるよう、法律を変えてほしい」(同上)

といったコメントまで飛び出している。

今回、気を利かせた裁判長が、法廷の遺族らに対して、

「106人が亡くなり、今も多くの方が苦しんでいるのに、誰ひとり刑事責任を負わないのはおかしいとの考えがあるのかもしれないが、個人の責任を追及するには厳格に考えなければいけない」(同上)

という説示をしたにもかかわらず、これすら焼け石に水だったようで、翌日の朝刊には、

「組織ではなく人を裁くのであればこんな判決しか出せない、と言われているようで憤りを感じる」(日本経済新聞2013年9月28日付け朝刊・第39面)

というコメントで跳ね返ってきてしまう。

おそらく、毎回公判のたびに法廷に足を運び、身近な人間を亡くした悲しさ、悔しさを、目の前に座っている被告人に心の中でぶつけ続けてきたであろう被害者遺族にとって、可能性のある答えは「有罪」か「無罪」かのいずれかしかなかったのであって、そこで「無罪」と聞けば、やり切れない、ハシゴを外されたような思いになるであろうことは、理解できるところである。

だが、その思いだけで被告人を「有罪」にすることはできないのであって、

判例上、事故が起こるかもしれないという危惧感程度では過失責任を問えないとの考えが根強く、従来の法解釈に沿った妥当な判決だ。業務上過失致死傷罪が個人の刑事責任を問う以上、事案によって予見可能性のハードルを変えてはいけない」(同上、強調筆者)

という、大塚裕史・神戸大大学院教授のコメントが、そのことを端的に示していると言えるだろう*4

刑事訴訟の法廷は、公訴事実の認定に必要なレベルを超えたところで「真相解明」を行う場ではないし*5、ましてや、議論を深める場ではない*6

それに、これだけの重大事故ともなれば、組織の象徴たる“歴代4社長”を法廷に引きずり出して、わざわざ「個人の刑事責任」を追及するようなことをしなくても、事故調査委員会等による検証のメスや、民事上の責任追及など、JR西日本の組織としての責任を追及する途はいくらでもあったはずだ。


・・・にもかかわらず、事故直後に憎悪感情を増幅させるような報道を繰り返したメディアや、それに応えようとするがごとく、強引に山崎元社長を起訴にまで持ち込んだ当時の検察庁、そして、“市民感覚”を過度に強調しすぎた感のある、当時の検察審査会をめぐる評価等々が重なった結果が、被害者遺族に「被告人らが有罪にならなければ、亡き被害者に顔向けできない」という思いを抱かせ、(本来であれば当然の結果と言える)「無罪判決」に、より無念の思いを抱かせることになってしまったのではないか、と思えてならない。

これが、検察審査会制度だけの問題ではないことは明らかなのだが、まずは、ボタンの掛け違いから生まれる“悲劇”を少しでも解消するために、手を付けられるところから付けていく*7ことが大事なのではないか、ということで、まずは、「強制起訴」制度の見直しと、過失責任追及のあるべき姿に向けた制度の構築に早急に手が付けられることを願うばかりである。

*1:山崎元社長の無罪判決に関しては、http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20120112/1326602532http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20120128/1328199332参照。

*2:小沢一郎氏に対して指定弁護士が控訴した際にもコメントしたとおり(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20121112/1352829167参照)、指定弁護士が一審の無罪判決をそのまま確定させたり、あるいは公判の途中で公訴を取り消す、といったことができるのかどうか明確な根拠がない以上、ズルズルと上に持ち上げないといけないのかもしれないが、それは明らかに訴訟コストの無駄以外の何ものでもない。

*3:日本経済新聞2013年9月28日付け朝刊・第2面

*4:なお、今回の判決を受けて「組織」に対する刑事責任追及を求める声も上がっており、山崎元社長に対する前掲神戸地裁判決で「組織としての鉄道事業者に要求される安全対策という点からみれば,本件曲線の設計やJR西日本の転覆のリスクの解析及びATS整備の在り方に問題が存在し,大規模鉄道事業者としてのJR西日本に期待される水準に及ばないところがあったといわざるを得ない。そして,検察官が,被告人質問において被告人に指摘していた先見の明の有無という観点からすれば,安全対策の責任者であった被告人について,当時のJR西日本のATS整備基準では,本件曲線が直ちにATS整備の対象とはなるものではないが,自ら新たに使用開始される本件曲線についてATS整備が必要であることを見抜き,ATS整備をするよう指示しなかったことについて先見の明がなかったとの非難は可能であろう。」という判示がなされていることからすれば、そのような考え方で刑事責任を追及する余地はあるのだろう、とは思う。ただ、この神戸地裁の判示は、あくまで公訴事実に対する判断とは無関係の傍論に過ぎないし、運転士(故人)が制限速度を45キロもオーバーさせて曲線に突入した、という本件事故の異常性に鑑みれば、当該運転士に対する刑事責任を超えて、「刑事処罰に値するだけの組織としての責任」を問えるかどうかも、かなり微妙な事例なのではないかと思うところである。

*5:むしろ、公訴事実の認定をめぐる心証に影響を与えかねないようなセンシティブな“真実”は、かえって徹底的に法廷から消される傾向すらある。

*6:その意味で、大塚教授のコメントと並んで掲載されている四宮啓教授の「公開の法廷で事故を巡る企業トップの責任の有無が議論されたことが有益だ」というコメントは、的を射たものとは言えないように思う。

*7:メディアの一面的な報道は、(それを受け入れ支持する大衆がいる以上)そう簡単に変わらないだろうし、我が国の法制度の仕組みに対して正しく認識してもらう、というのも、そうそうできることではない。

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