時代を作ったスケーターに精一杯の敬意と感謝を込めて。

村主章枝選手が、遂に「現役引退」を表明、というニュースが13日から今日にかけて報じられている。

6歳でスケートを始めてから、競技生活は実に28年。
シニアの第一線で活躍し始めてからも20年近く、という驚異的な時間を、彼女は氷上の演技者として生きてきた。

そして、ライブでも、テレビ中継でも、彼女の演技に接したことによって、フィギュアスケートという競技に魅せられ、その奥深さを知った者は、筆者以外にも世に多数いることだろう。

記者会見の映像のダイジェストは、自分もニュースで見たのだが、4年前には考えられなかった「この辺が潮時」という趣旨のフレーズを、穏やかな雰囲気の会見でサラッと語った、というところに、かえって、村主選手にとっての「(競技者としてなかなか表舞台に立てなかった)この数年の重さ」が感じられるような気がして、気持ちとしては、ちょっとザワザワするところがある*1

ただ、ここ数年、多くの人が「いつか来るだろう」と思っていた区切りの時がとうとう来た、というのも事実なので、ここで少し振り返ってみることにしたい

名実ともに村主選手が日本のNo.1だった時代。

村主選手が全日本選手権に初めて出場したのは1995-96シーズン*2である。長野五輪を目前に控えているのに、世界と戦える選手がなかなか育たないことに業を煮やして、4年ぶりに現役復帰した伊藤みどり選手が、あっさりと優勝をかっさらってしまう、そんな時代に彼女はシニアの表舞台に現れた*3

その翌シーズン(96-97年シーズン)に初優勝を遂げ、ローザンヌの世界選手権に初めて出場したものの、順位は18位。
そして、さらにその次のシーズンの全日本フィギュアで、荒川静香選手に敗れて「1枠」に入れず、長野五輪出場を逃す。

国内では“華のあるスポーツ”として認知されていたものの、国際競技会となると、途端に日本選手の存在感が薄くなってしまう・・・
伊藤みどり佐藤有香、という先駆者が過去にいたにもかかわらず)五輪レベルの大会で表彰台に立つ日が来るのはいつのことやら、という雰囲気が世を覆っていた時代だったから、日本では一線級のポジションにいたとしても、大学進学等の環境の変化を経る中で、競技を継続するモチベーションを維持するのは、今以上に大変だったことだろう。

だが、そんな中、村主選手は、修練を積み、シーズンごとに演技の質と国際審判の評価を上げていった。
あれよあれよ、という間に、四大陸選手権優勝、そして、荒川選手との死闘を制して出場したソルトレイク五輪で、ほぼ完璧な演技の末、5位入賞。

自分はちょうど、2000年の全日本フィギュアで村主選手が優勝したあたりから、この選手の演技に“違う何か”を感じていて、それゆえ、ソルトレイク五輪の1年以上前から、「村主選手がメダルを獲る、獲る!」と吹聴していたものだから*4、仕事をサボって職場のテレビで見ていた五輪の「月光」のプログラム(フリー)で、最初のコンビネーションジャンプがきれいに決まった瞬間と、最後の高速スピンを回り切って会場が拍手に包まれたのを目撃した瞬間は、見ているこちらまで泣きそうになった。

そして、その直後に行われた長野の世界選手権で、村主選手はついに、日本女子選手として8年ぶりの表彰台に立つという快挙を成し遂げる*5

今思えば、このシーズンと、日本選手権3連覇、四大陸選手権優勝、世界選手権2大会連続銅メダル、という堂々の成果を残した2002-03シーズンが、村主選手が、アスリートとして最もバランス良く力を発揮できていた時だったのではないかと思う。

後になって、「演技派」としての側面ばかりがメディア等で強調されるようになってしまったことや、その後台頭したジュニア世代(当時)が女子フィギュアに要求されるジャンプの水準を一気に引き上げてしまったために、「村主選手と言えばジャンプよりも表現力」というイメージを持っている人の方が、今では多数派になってしまっているのだろうが、少なくともこの頃の村主選手は、ジャンプの質も安定感も、間違いなく日本では一番で、世界に出ても遜色ないレベルの選手だった。

加えて、その後10年近く彼女が世界の第一線で生き残る秘訣となった、しなやかで気品のあるスケーティングや、指先にまで表情が染み出てくるような丁寧かつ多彩な表現力、軸が全くぶれない美しすぎる高速スピン、といった要素も、この時点でほとんど完成に近づいていたから、そのまま力を落とさずに実績を積んでいけば、さらに上に行くことも夢ではない・・・そんな予感すら漂わせていたのだった。

「新採点方式導入」という不運と、それに立ち向かった末に開けたトリノへの道。

当時の選手寿命を考えれば、既にベテランの域に差し掛かっていたとはいえ、高いモチベーションを保って第一線で競技を続けている限り、村主選手の世界でのポジションは安泰、のはずだった。

だが、ソルトレイク五輪での採点疑惑*6に端を発した「新採点システム」の導入が、トリノに向けた風向きを怪しくする。

技術力にも定評があった選手とはいえ、20代も半ばに近付くと、勢いよく軽やかに飛ぶジュニア世代の選手たちに、ジャンプのレベルで対抗するのはなかなか難しい。
村主選手も、採点基準の変化に合わせて、ステップシークエンスのレベルを上げるなど、頑張りを見せてはいたものの、本格的に新採点方式が導入された2004-05年シーズン、GPシリーズで表彰台に上がれず、全日本フィギュアでも、台頭著しい安藤美姫浅田真央両選手の後塵を拝することになってしまう。

個々の要素の得意、苦手、というところもさることながら、元々、ジャンプを跳ぶ間の長い「間」で、音楽に合わせてスケーターとしての感情と独特の世界観を最大限表現する、クラシックなスタイルの演技で世界に認められた村主選手にとって、演技時間の中にポイントを稼ぐための細かい要素を詰め込むことが要求される「新採点方式」というスタイルは、本質的に不向きだったように思えてならない。

それでも彼女は、前年の女王・荒川静香選手が大きく沈む中、モスクワの世界選手権でSP10位から巻き返して5位入賞。自らが切り開いた「女子3人出場枠」を五輪前年に守り切った。

そして、今や神話となった、2005年の全日本フィギュアでのラフマニノフの調べ(ピアノ協奏曲第2番 第1楽章)に載せた渾身のステップ・・・
負傷に苦しむ中、フリーで逆転優勝し、「トリノに続く道」を自らの手でもぎ取った彼女が、「五輪4位」という、見事ながらもため息が出る結末を経て、世界フィギュア2位、という偉業を成し遂げた時、またしても自分の緩い涙腺が危機に陥ったことは言うまでもない・・・*7

「3度目の五輪」に向けた長い長い戦い

トリノ五輪で金メダルを獲った荒川静香選手が引退したのを横目に、当時25歳だった村主選手は、「現役続行」の意向を表明した。
翌シーズン(2007年)に世界フィギュアが東京で開催される、ということもあったから、それ自体はそこまで不思議なことではなかったのだが、そのシーズン、前半はまずまずの成績でGPファイナル出場を果たしたにもかかわらず、全日本フィギュアでまさかの4位となり、地元での世界フィギュア出場を逃してしまう。

続く2007-08年のシーズンも、序列的には「日本の4番手」。
2008年からコーチをモロゾフに代えて、全日本選手権で2位に食い込む、という復活劇を演じたものの、バンクーバー五輪を賭けた翌シーズンは、コーチとの訣別等の影響もあってか、GPシリーズから絶不調。全日本フィギュアで7位、という惨敗であえなく五輪切符を逃すことになってしまった。

誰もがもう引退だろう・・・と思った09-10年シーズン終了後も、まだ現役を続ける(しかもスポンサーを探しながら)、という話を聞いた時は、驚きを通り越して畏敬の念しか出てこなかったのであるが、その10-11年シーズンのGPシリーズで惨敗。

2010年の暮れに、何度も奇跡を起こしてきた長野を舞台に臨んだ全日本フィギュアで、2年連続の「7位」という成績に終わってしまって以降は、彼女の名前が、大きな舞台でコールされることもなくなった。


トリノ五輪後、2006-2007年シーズンから、今シーズンに至るまでの期間は、実に9シーズン。
村主選手が、日本の第一人者として活躍していた期間よりも、はるかに長い期間が、ここで費やされたことになる。

得点だけ見ると、2006年のNHK杯(2位)で出した179.31点、というスコアが、この間のベストスコアであり、それ以降、日本国内の大会でもこのスコアを上回ることができないまま、彼女は現役を終えることになった。

だが、バンクーバー五輪の切符を逃した全日本フィギュアの後にコメントしたとおり*8、結果を残せなかった、という事実だけを見て、フィギュアスケート、という競技に向き合い続けた彼女の努力と執念を否定するのは、全くお門違いな話だと思う*9

我々日本人にとって一番身近なところで、フィギュアスケートの魅力をこれでもか、というくらい伝え続けてくれた村主選手に、真に敬意と感謝の意を伝えたかったのなら、引退記者会見の記事に触発されてブログでグダグダ書く前に、東日本選手権が行われていたリンクに、一度でも足を運んで、今の彼女のありのままの演技に拍手を送るべきだったのではないか、という後悔はある*10

しかし、それがかなわなかった今、記憶が薄れてしまう前に、自分がこの10年以上の間に、見聞きして、感じたことを、少しでも残しておければ、と思った。

そして、あとは、この先、村主選手が、「振付師」として、“和製ローリー・ニコル”、あるいは、それ以上の存在として、フィギュアスケート界に名を刻み込んでくれることを、自分は願ってやまないのである。

*1:村主選手のこれまでの言動からすると、最後の最後まで「現役」にこだわり続けるのではないか、という気がしていたし、新しいポジションに移るとしても、もう少しさりげない形になるのではないか、と思っていたのだが、この幕引きの仕方は少し意外だった。先日の高橋大輔選手の会見の影響もあったのかもしれないが・・・。

*2:Wikipediaを見て、当時はまだ全日本フィギュアが「年末のイベント」としては固定されていなかったのだな・・・ということを思い出した。

*3:村主選手はこのとき15歳で4位に食い込む。ちなみに、今のジュニア世代のスケーターのほとんどは、当然のことながら、まだこの時には生まれていない。

*4:とはいえ、当時、世の中では、恩田美栄選手に“伊藤みどりの再来”を期待する声の方が圧倒的に多かったから(それもあって連盟も早々と内定を出した)、随分バカにされた記憶がある(苦笑)。

*5:目の前で見られるチャンスがありながら、様々な理由であの時女子の方は観戦しなかった、というのが、未だに自分のちょっとした後悔になっている。

*6:本当はそれ以前から(というか、伊藤みどり選手が3回転半を飛んでいた時代にすら、それはあった)、“疑惑”の種は随所に存在したのだが、ソルトレイクのフランス人審判の不用意な発言は、あまりにセンセーショナル過ぎた。

*7:この辺りの時期の自分の驚きと喜びは、当時のこのブログにも克明に残されている(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20060326/1143394247)。思い余って、ラフマニノフのCDまで買って何度も聞き返していたのも、懐かしい思い出である。

*8:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20091227/1261934070

*9:バンクーバー五輪の前後には、ネット上に彼女を揶揄するコメントが飛び交ったこともあったが、それも今は昔・・・である。

*10:昨年、安藤美姫選手が出場して、一躍脚光を浴びたものの、そんなことでもなければ、なかなか陽が当たることもない舞台。だからこそ、見ておくべきだったのではないか、という思いはある。