一つの区切りと割り切れない思い。

間もなくあの大震災から5年、という歳月が流れようとしている。

そして、そんなタイミングで、津波犠牲者遺族が提起した2件の訴訟が終結の時を迎えた、というニュースが小さく報じられた。

東日本大震災津波で犠牲になった七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の従業員3人と、宮城県山元町立東保育所の園児1人の遺族が、それぞれ銀行と町に損害賠償を求めた2件の訴訟で、最高裁第2小法廷は18日までに、遺族側の上告を退ける決定をした。遺族側の敗訴が確定した。津波の犠牲者遺族が管理者側の過失責任を求めた訴訟の判決が最高裁で確定するのは初めて。」(日本経済新聞2016年2月19日付朝刊・第38面)

震災後に相次いで起こされた津波犠牲者の裁判の中でも、上記2件は、日和幼稚園の事件と並んで比較的早い時期に提起され、第一審の判決が出されていたものだったから、このタイミングで上告棄却or不受理ということになったのも、一般的な訴訟の進行としては、さほど不思議なことではない。

そして、法的に言えば、上記2件については、「これで一区切り」ということになったのも確かだ。

しかし、被災地を歩けば、まだ痛々しい震災の爪痕があちこちに残っているのを目にせざるを得ない今の時期に、敗訴判決確定、という結論が下されたことについて、当事者はもちろん、震災直後から現場にかかわってきた関係者の中にも、すんなり受けとめられない人は多いのではないかと思われる。

涙なしに一審判決を読むことが難しかった日和幼稚園の事件が、高裁で和解、という決着を迎えた時、自分は安堵と感嘆を素直にここに綴ったのだが*1、今回判決が確定した2件も、判決に記されている事実を読めば、同様に「加害者」と「被害者」の区別などない・・・そんな事案だったと記憶している。

もちろん、裁判で争われ、結論を分ける決定的な要因になるのが、使用者、施設管理者の「過失」の有無、という法的評価を伴う判断である以上、そこは、“原告・被告双方にとっての事案の悲劇性”といったものとは切り分けて冷徹に見なければならない。
特に、十分な想定を行っていたにもかかわらず、なおそれを遥かに上回る被害が発生してしまった女川などでは、法的評価を行う上で、他の地域とは異なる考慮も当然必要になるだろう。

ただ、そのような評価を経て、白/黒の線引きを明確にすることが馴染む事件だったのかどうか。
このタイミングで終わらせるなら、「和解」という形が相応しかったのではないか、と思ってしまう自分にとっては、まだ「3・11」から流れた時間が短すぎるのかもしれない*2

*1:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20141204/1417713346

*2:なお、山元町立東保育所の事件では、町と園児1人の遺族との間で2014年12月に仙台高裁で和解が成立している。また、東保育所から数百メートルの距離にあった、ふじ幼稚園の園児6名の遺族が提起した訴訟についても、2015年10月に仙台地裁で和解が成立している。当事者双方で折り合える着地点が見いだせない限り、「和解」という決着はあり得ないだけに、どうにもならない時があるのも確か。それでもなお、割り切れない思いは消えない。

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