「何も変わらない」ことこそが変化の兆し。

正式にはまだ始まったばかりで、当日までもう少し時間があるはずなのに、既に終焉ムードが漂っている自民党総裁選。

現在最有力と目されている官房長官への”禅譲”の可能性は春先からどことなく漂っていたし、加えて「交代」の理由が、現総理の失政批判によるものではなく、「体調不良を理由とした辞任」だった、ということが、順当承継をもくろむ人々にとっては格好の追い風になって、立候補を表明した瞬間に当確、という、かつての様々なドラマを知る世代にとっては全く面白くない展開になってしまった。

候補者が掲げている政策はもちろんのこと(後述)、資質、品格といった面から見ても、劣勢に立たされている他の2候補の方が総理にふさわしいのは明らかなのに、こういう展開になってしまうのは、「次の次」を伺う誰にとっても、今の官房長官がそのまま首相の座に収まってくれた方が都合がよいからに他ならない。

御年71歳。

海の向こうで後期高齢者世代が次期大統領を争っていることを考えると、「失礼だ!」と言い出す方も現れるのかもしれないが、この先5年、8年といったレベルで政権の座を担い続けることは、本人すら想定していないだろう。

形式的な総裁任期だけでなく、登板する状況としても「ショートリリーフ」だろうな、ということが見え透いているからこそ、人気のある中堅政治家たちもこぞって、政治家として脂が乗り切った60代前半の候補者ではなく、70歳超えの候補者の支持を表明する。

他の2候補が自派閥の足元固めに追われ、地方を回って「2位」争いに血眼になってしまっているようでは、独走を止めることなど到底ままならないわけで、あとは「文春砲」くらいしか舞台を盛り上げることができそうなアイテムはなかったのだが、ここ2週間の見出しを見る限り、(一応狙いを定めてはいるものの)盛り上がるレベルの話は出てきそうもない。

だからおそらくは来週開かれる臨時国会で、無風のまま、現官房長官首班指名を受けることになるのだろう。


ちなみに、先月末の電撃辞任劇以降の現総理に対する報道や、あちこちから寄せられる賛辞の声を眺めながら思ったのは、

「神様はちゃんと見てるな。」

ということだろうか。

鳴り物入りで就任した第1次政権の無残な散り方。

自身が招いた”お友達”の不祥事や、力が入り過ぎてバランスを欠いた政権運営、といった要素があったとはいえ、まだまだこれから、という若き政治家をわずか1年で権力の座から引きずり下ろした運命はあまりに残酷だった。

だからこそ、ひとたび「復活」した後は様々なものが味方した。

「自壊した民主党政権の後を引き継いだ」ことが一番の追い風になったことは言うまでもないが、国内ではポスト・東日本大震災、世界的にはポスト・リーマンショックの”復興”景気の波に乗り「経済への強さ」を演出できたし、アジア諸国の急成長に伴うインバウンド神風の恩恵や「五輪開催」という僥倖にも預かることができた。

スキャンダラスな話題はたびたび出たが、追及する側の力不足、人気不足もあって致命傷にはならず、選挙になれば敵方が自滅、分裂して勝つ。

そんなことの繰り返しで8年近く政権を維持し、新型コロナ対応をめぐるあれこれで今度こそ揺らぐか・・・と思われた時期に潔い引き際を示したことで再び人気が沸き上がる。

50%を超える高支持率で退陣を迎えられる最高権力者など、世界を見回してもそうそういるものではなく、これが「神が与えたバランス」でなければ何なのか、というのが、傍観者としての率直な感想に他ならない。

もちろん、慎重かつ手堅い政権運営や徹底した危機管理は第1次政権の教訓の賜物。

賛否両論あるが、政策面でも「異次元緩和」に象徴される金融政策には筆者自身が多大な恩恵を受けたし、2度の消費税引き上げを断行したのも、この国の将来を考えれば立派な成果だというほかない。

ただ、それ以外のところではどうだったか。

いったい全部で何本放ったんだ?という「矢」は、最後まで的に当たることはなかったような気がする。

そして、少なくとも産業政策に関しては、「産業革命」とか「Society何たら」といった仰々しいタイトルに伴う実が、いったいどれだけあったのだろうか。

元々、産業界に良い顔をしつつ、時に世論を意識して極端に「市民寄り」の政策を打ち出すような一貫性のなさ(もちろん「政権維持」という目的に向けられているという点では一貫しているのだが・・・)がこの8年弱の特徴の一つでもあったのだが、キャッチ―なコピーを掲げたあれこれが打ち出されるたびに様々な企業が振り回され、その中にいる人たちが泣かされた。

経産省が振り回す旗の下に行われた民間企業への過干渉

確かに、今世紀に入ってからだらしない経営をしているように見えた日本企業が多かったのも事実だが、事業の現場を知らない人々が唱える「改革」ほど空しく響くものはない。

ダッチロールを続けて不毛な公費投入が繰り返されたあげく一連のコロナ禍で雲散霧消した施策も決して少なくないわけで、この半年の間、「マスク」や「Go To」で叩かれているような状況は、ずっと前から存在していたのだ。


そんな状況で、神の加護のみで存続してきたのが現政権だった、ということを考えると、絶対与党たる自民党が取るべき最善の策は、「看板を変える」ことだったはず

でも事態は真逆の方向に向かいつつある。

一足早く行われた野党側の統一新党の代表選は、おなじみ今の野党第一党代表が順当に選出され、党名ともども「変わらない」結果となった。

構図が変わらなければこれまでどおり。任期も人気も現政権を引き継いでまだまだこの先安泰、と高をくくっている現政権支持者も多いのかもしれない。

だが、ひとたび風が吹けば一気に天国から地獄に落ちるのが小選挙区制の怖さだ、ということは、これまでの歴史が証明してきたこと。

看板は変わらなくても「数」をジワリと増やした野党を前に、あと少しで10年に達しようとしている長期政権が態勢有利な今「変わらない」ということは、次のタイミングでの変化を自ら呼び込むリスクを抱えるのと同義だろう、と自分は思っている。

歴史を振り返れば、栄華を極めたカリスマ総理の退陣後、登板させた首相が次々と打ち込まれて最後大敗を喫するまで、要した年数はたったの約3年。

今の世の中の情勢と、年々増していく時代の変化するスピードを考えると、その期間がもっと短くなる可能性すらあるのだが、そうなる前に小さな変化でしのぐのか、それとも座して死を待つか。

いずれにしても、

「そう遠くないうちに大きな変化が訪れる」

ということだけは、ひとまず予言しておくことにしたい。

そして最後に、筆者自身は、民に変なちょっかいを出さない政治をしてくれるなら、保守でもリベラルでも、愛国でも憂国でも何だっていいと思っているだけに、この10年の間に少なからぬ人々が持つに至った、「よく分からん飴玉を食わされて恩を着せられるくらいなら、塩対応の方がマシだ!」という価値観を理解していただける方が一日も早く国政の舞台で主役の座に登り詰めてくださることを、ただただ願うのみである。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html