シンプルな利益衡量だけでは救えなかったもの。

17日に行われた北京五輪フィギュアスケート女子シングルフリーの最終グループの中継で見たもの。それは間違いなく「異様」と形容するしかない光景だった。

華やかな団体戦の「表彰式中止」という異例の事態に端を発したリンク外の騒動。

振り返れば、「ケリガン対ハーディング」の時も連日メディアは騒がしかったし、最近でも、プルシェンコ選手が大会中の発言で物議を醸したことはあったような気がするが、今回の問題は、アスリートとしての本質にかかわる話。

しかも比較的オープンな舞台で繰り広げられていた過去の騒動とは異なり、今回は大会の主催者も、”火元”も、関係者への自由な取材を許すようなバックグラウンドを持たない国だったこともあってか、憶測報道ばかりが先行してどうにもこうにもならない状況になっていた。

検体から禁止薬物が検出され、一度は暫定的な資格停止処分を行ったにもかかわらず、選手側からの異議申し立てによって即時に解除してしまったロシアの反ドーピング機関、そしてそのような対応に対して、IOC、ISU、WADAがスポーツ仲裁裁判所(CAS)に申立てを行い、2月14日に出された決定によって、疑惑の渦中にいたワリエワ選手の出場が認められた、というのが公式の事実。

当然メディアの反応は、何で・・・??というものが大多数だったが、CASが17日付で公表した41頁にもわたる公表文*1を読めば、その理由も何となくわかってくる。

昨年12月に行われた検査で得られた検体だったにもかかわらず、検査機関の対応の遅れで、こともあろうに五輪の真っ最中にその結果が(しかも確定しないまま)出てくるという事態になったことをCASは厳しく批判している。

そしてその結果、白黒が確定しない段階で五輪本番を迎えたアスリートに対し、(最終的に覆る可能性のある)Provisional Suspension(暫定的停止処分)を課すことが回復可能な損害を与える、ということを仲裁廷は繰り返し強調しているのである。

If the anti-doping results management process was to find in the full hearing that a sanction of a period of suspension should issue, then the Athlete will suffer the
bite of that suspension. By contrast, if the Provisional Suspension was to be put in place, but the results management process was to find after the merits hearing
that the suspension should be lifted or materially reduced, then the Athlete will have lost the chance of competing in the Olympic Games without any possibility of recompense. If the Athlete competes and wins a medal, and she is later found to have committed an ADRV that would have prevented her from competing, the
Athlete’s placement can be vacated and her medal returned (though the Panel has taken note that the IOC has subsequent to the hearing here issued a statement to the effect that if the Athlete finishes in the top 3 medals for Women’s Single Skating will be issued after her doping case is resolved); the chance to compete in the Games is, however, fleeting and incapable of replacement with anything else. Therefore, the Panel holds that the balance of interests tips decisively in favour of the Athlete, again because she is a Protected Person. Finally, the Panel is persuaded that in the face of irreparable harm to the Athlete upon issuance of a Provisional Suspension (eventually possibly being found to be unjustified), there is no founded and equally tangible irreparable harm in case of lifting of the Provisional Suspension, neither for the Applicants nor for the other competitors.(39頁、強調筆者、以下同じ)

報道の中には、ワリエワ選手が15歳だったことが、ドーピングを許容する”温情”判断につながった、というようなトーンのものも目立ったが*2、その点についてもCASは明確に否定している。

This Panel is not concerned that the limited facts that ground this decision open the door to young athletes competing in the Olympic Games or other events simply because they are Protected Persons. This decision is based on the facts presented to the Panel, the instigating fact of which was untenable delay by the Stockholm laboratory caused by reasons not attributable to the Athlete and the anchor of which is that the Athlete is a Protected Person. This case was not about the underlying alleged anti-doping rule violation and the Panel takes no position on that...(40頁)

仲裁廷を構成するイタリア、米国、スロベニアの3か国の法律家が重視したのは、検査機関の遅れにより増幅した不利益を選手に負わせることのバランスの悪さに他ならず、有罪が明確に証明されるまでは極端な不利益を課すべきではない、という「推定無罪」の発想も根底には流れているように思われる実にクリーンな決定*3

ただ、今回の件に関しては、そんな「正義の決定」が明らかに裏目に出た。

(ドーピング疑惑については何ら白黒つけていない以上やむを得ない話とはいえ)裁定が下された後も連日加熱していく報道。

選手本人は、ショートプログラムで出だしのトリプルアクセルを大きく乱してもなお首位に立つ、という貫禄の演技を見せたが、その翌日も演技の評価以上に、”クロ”を推認させるような事実の報道が相次いだ。

バブルに閉じ込められていた本人の耳に、そういった報道がどこまで伝わっていたかは分からない。
ただ、本来なら晴れの舞台になるはずだったフリーの演技の日に用意されていたのは、残酷すぎる裏花道だった。


日本が育てるユ・ヨン選手の味のある演技に続いて、樋口新葉選手がライオンキングの曲に乗ってトリプルアクセルをほぼ完璧に決め、4年前の無念を晴らしたところで炸裂したのが「フィギュアスケート」という競技の概念すら破壊せんとするトゥルソワ選手の技術点106.16点の超絶演技。

これに対して、クラシックなフィギュアスケートの魅力を全力で体現したのが坂本花織選手*4で、続くシェルバコワ選手が、クラシックな美しさと技術の高さをうまく折衷してまとめたところで、用意された「花道」にワリエワ選手が登場した。

最後に彼女が滑り始める前に自分が気にしていたのは、「表彰式をやりたい関係者」の作為がワリエワ選手の採点に少なからず反映されるのではないか、ということで、この点は最後までフェアにやってほしい、と思う一方で、その時点でギリギリの3位につけていたのが日本の坂本選手である、ということの悩ましさ。

そんな複雑な思いも、出だしから立て続けにジャンプを乱した姿を見た時に、全て杞憂に変わり、最後まで滑り終わる前に、彼女の戦いは事実上終わってしまっていた*5

滑り終わってからスコアが表示されるまでの時間には何とも言えない非情さもあったが、表示された瞬間に心の底から喜べる国の国民だったことは良かったのか悪かったのか・・・。


ドーピング疑惑の結果も含めて、いずれROCチームの中で起きてきた様々なことも明らかになってくることだろう。
そして、今回悲劇の主人公になったワリエワ選手の姿をミラノで見ることができる可能性も、自分は決して高くないと思っている。

ただ、女子フィギュアスケート史上歴代最高得点、フィギュアスケート史上最高傑作と言っても良い昨年のロステレコム杯のフリーの演技の映像*6を見るだけで彼女の比類なき価値は理解できるわけで、この先、いかなる結果になったとしてもその演技者としての価値は否定されるべきではない、ということは、ここで強く訴えておきたい。

*1:https://www.tas-cas.org/fileadmin/user_upload/OG_22_08-09-10_Arbitral_Award__publication_.pdf

*2:その結果、フィギュアスケートのシニアの大会の年齢制限を17歳に引き上げる、という話まで出てきている。

*3:この件に関しては「まだ15歳なんだから4年後がある」という声も上がっていたが、年齢にかかわらず、目の前の大会に参加する権利を持っているのに参加できない、ということ自体が重大な損害、と仲裁廷は判断しているのだと思われるし、それも決して非難されるべき論理ではないと自分は思っている。

*4:決して難易度の高いジャンプを飛ぶわけではないけど、滑ってるだけで点数を付けたくなるという点では往年のコストナー選手に近づいているところはあるような気がする。

*5:ボレロのように最初から最後までほぼ同じテンションで進んでいく曲で崩れるとリズムを変えて立て直すのも難しい。その意味で、すべてが彼女にとっては悪い方向に作用してしまったフリーの演技だったような気がする。

*6:Kamila Valieva | RUS | Free Skating | Rostelecom Cup 2021 - YouTube

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