浅田真央選手の引退と、まだ残る余韻。

4月10日、夜も更けた時間に本人のブログにアップされた引退の言葉。

「私、浅田真央は、フィギュアスケート選手として終える決断を致しました。」*1

一見唐突に見えた発表だったが、これは、昨年末の日本選手権、浅田選手が力尽きて「12位」という順位に終わった時点で、少なからぬファンが予感していた結末でもあった。
そして、さほど間をおかずに記者会見の予定とフジテレビの「特番」が告知され、関係者の間では既に十分な調整もなされていたのだなぁ、ということに気付かされる。

前の五輪直後の「ハーフ・ハーフ」から3年。

これで終わりか・・・と思ったファンの予測を良い意味で裏切った2015-16シーズンの復帰劇は、つかの間の歓喜の後、苦悩の物語に変わる。

思えば2015年の全日本フィギュアのフリーで巻き返して3位に入り、世界選手権の切符を掴んだのが復帰後の最大の見せ場であり、翌年3月のボストンでの世界選手権でシーズンベストの200点超えを果たしたのが花火の最後の残り火、になってしまった。

休養している間に、若いロシア勢を中心にプログラムのレベルが一気に深度化し、かつては優勝争いできたレベルのスコアでも表彰台に遠く及ばなくなってしまった、という現実。
そして、そんな時代の変化は、満身創痍で痛みと戦いながらシーズンを過ごしてきた浅田選手に、「五輪まであと一年」戦い続けることを許さなかった。

引退表明の当日、マイクが拾った街角の人々の声の中には、「まだできるのに〜」的なものも混じっていたのだが、4年に一度ではなく、毎年フィギュアスケートを見続けている者としては、とてもじゃないけどそんな残酷なことは言えないし、昨年の全日本フィギュア後、全ての公式大会が終わるこのタイミングまで引っ張ってくれた(それでちょっと夢を見させてくれた)ことに、ただただ感謝するのみである。

11日以降、新聞紙面を飾った特集記事の中には、浅田真央選手本人を取りあげるだけでなく、「浅田真央」という超越したスケーターが作り出した、この10年の間の“フィギュアスケート新時代”を回顧するものも多かった。

もう少し前からフィギュアスケートを見ていた自分にとっても、この10年間、というのは実に特別な時間で、チケットが人気になり過ぎて会場で優雅に試合を見ることができなくなった代わりに、かつてとは比較にならない情報量の下で、メジャースポーツとしてのフィギュアスケートを見ることができるようになったのは、冷静に振り返ると凄いことだった、というほかない。そして、そんな時代の中、このブログに「浅田真央」というアスリートの名前を記したことも、一度や二度どころではなかった。

本人が出られなかったトリノ五輪から、金メダルを義務付けられたバンクーバー、ソチ、という2つの五輪まで、そして五輪を挟んだ前後のシーズンの間ずっと、休養していた間ですら決して忘れられることのない存在感を発揮していた浅田選手がリンクを去ったことで、これから我々の意識も大きな変革を迫られることになるのだろう。

だが、自分の中で、まだまだ彼女の作った時代の余韻は消えていない。
そして、新しいシーズンが始まっても、女子のスケーターの演技を見るたびに、無意識のうちに浅田選手の演技と比べてしまう自分がいるような気がするのである。

最後に、このブログで書き続けてきた彼女の記事の中でも、もっとも思い出深い「逆襲のチャルダッシュ」(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20070324/1174792152)と、バンクーバー五輪の「鐘」の後の記事(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20100227/1267315723)のリンクを残しておくことにしたい。

どちらも彼女が優勝した試合ではない。にもかかわらず、観た者に強いインパクトを与え、10年続く余韻を残した、というところに、彼女の一番の価値があるような気がするので。

*1:「真央ブログ」(http://mao-asada.jp/mao/)より。

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