「エリート」は「没落」したのか?

CX系の土曜深夜ドラマ枠に、今クールから堂本剛主演の「33分探偵」というドラマが登場したのだが、いろいろとぶっ飛んでいてなかなか面白い*1


この先どうなるか分からないが、初回のストーリーで出てきていたこのドラマのキモを簡単にまとめると、

「明らかに犯人が分かっている事件であるにもかかわらず、主役の探偵が荒唐無稽な推理を連発することによって、ドラマの時間枠いっぱいまで「解決」を先延ばしする。それゆゆえに「33分(ドラマの時間枠)探偵」。」

ということのようである。


で、見ていてふと思ったのが、いわゆる社会科学系の学問、特に“社会学”と称される学問分野において、最近展開されている議論の中にも、同じようなパターンで展開されているものがあるんじゃないか、ということ。


もちろん、「科学」を冠する学問である以上「当たり前の結論」であっても、それを導くために実証データを踏まえた丁寧な議論が求められるのはいうまでもないことで、そのような過程の存在をもって、“迂遠だ”と批判するのは適切ではないだろう。


それに、新聞・雑誌記事や新書、ブログでのコメント等、我々が身近なところで触れることができるこの種の議論においては、掲載スペースに制約があったり、一般人向けの分かりやすさが重視されていたりするから、議論の展開に説得力を持たせるために必要となる丁寧な議論やデータが省略されていることも多く、そのような“ダイジェスト版”のみを見て学問そのものに批判を加えるのは失当、というべきなのかもしれない。


だが、“素人”であるがゆえの失礼を承知で言えば、やっぱり何でもかんでも「社会」のあり様に原因を求めて、本来は単純に解決できそうな問題を延々と本一冊分論じてしまうような議論を見かけると、「33分探偵」ならぬ「330頁学者」(大体単行本一冊だとページ数はこれくらいだろうから・・・)なんて揶揄したくもなるものだ。




・・・と、ここまで書けば勘のいい方は気付かれたかもしれないが、自分がこんな記事を書いたのは、今話題になっている「女。京大生の日記」の“人気エントリー”(http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217359666)に刺激を受けたから(笑)・・・である。


文章はしっかりしているし、学生の論文に細かいケチをつけても仕方ないのであるが、

(1)「「就職できない京大生(高学歴者)」というのは、現代社会の問題と結びつけて取り上げなければならないほどの“新しい”問題なのか?」

(2)「仮に(1)で“新しい”問題ということができるとして、それを文中で引用されている“能力を測る物差しの変質”*2という前提と結びつけて論じることが妥当なのか?」

(3)「万が一(2)を肯定できるとしても、問題を解消するために「社会」でできることが果たしてあるのか?」

という点についての論拠の乏しさ(ツメの甘さ)は如何ともし難い。


東大でも京大でも、就職に苦労する、あるいは定職につけない(つかない)人々は、昔っから決して少なくない数いるし、“超売り手市場”だったバブルの頃でも、そういった状況は存在した。


また、仮に“最近になって”職にあぶれる(就職に悪戦苦闘する)京大生が増えている、という前提があるとしても、その原因は、“物差し”の変化の影響によるのではなく、リクルーター制度が下火になったことによる有名大学学生の企業へのアクセスの困難性*3や学生の志向の変化*4によるところが大きい。


そして何よりも、最後の(3)。


これがまさにこの種の議論特有の“無意味な引っ張り”のように思えてならないのである。



仮に、企業が真に求める人材の「物差し」が変わっていたとしても、「変質」した後の「物差し」で完璧な評価を得られる人材が、世の中にそんなにたくさんいるとは思えないし、旧来型の「物差し」がしっくり来るような人材でも、そこで評価されるべき「能力」を面接の場でしっかり伝えられれば、就職活動を勝ち抜くことができている、というのが実態だと思われる。


今問題となっている製造現場等とは異なり、“経済的エリート”層(将来の経営幹部候補生や高度な専門業務を担当する者)に対する採用ニーズは失われていないのだから、極端なことをいえば、

「就職しようと思ったら、しっかり準備をしましょう。」

と言えば足るのであり、そこであえて「社会」を持ち出す必要性がどれほどあるのか・・・、と自分は違和感を抱かざるを得ない*5


何でもかんでも「自己責任」を乱発する議論には正直辟易するが、かといって、何でもかんでも「社会」に根ざした問題と捉えるのも、「330頁学者」的議論との謗りを免れえないような気がしてならないのである。


まぁ、自分も時々瑣末な論点に大仰なタイトルをつけて問題提起したりしているから、あまり人のことは言えないのであるが・・・・


一応、自戒の意も込めて。

*1:この辺は好き嫌いが激しく分かれるところだと思うが(笑)。

*2:理系はどうだかしらないが、文系学生に関していえば、古典的大企業が有名大学学生に求めている「能力」は今も昔もほとんど変わっていないように思えるから、この本田由紀氏の議論自体筆者は眉唾だと思っているが、原典にあたったわけではないので、ここでは詳細な批判は割愛。

*3:リクルーター制が下火になったのは、採用基準を変えるため、というよりは企業の懐事情や、“ウェブエントリー”等の新ツールの導入に起因するところが大きい。

*4:例えばT大では法学部の学生が皆司法試験を一度は目指すような状況になってしまった(かつてはそんなことはなかった)がために、一般企業のニーズと学生の求めるものとのミスマッチが顕在化するようになった。

*5:この点、働く場自体が消滅しつつある製造技能職の問題や、採用のスタートラインに乗ることすら困難なロストジェネレーション問題とは、ことの本質が大きく異なっている。

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