破天荒なフリーライド?〜「たかが2行」ではない知事著書の問題

ちょうど先週末、興味深い紛争事例として、以下のような記事が日経紙に掲載されていた。

松沢成文神奈川県知事の著書の一部に自著と類似の表現があり、著作権が侵害されたとして、ノンフィクション作家の山口由美さんが知事と出版元の講談社に印刷や販売の禁止などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は29日、請求の一部を認め、著作権侵害に当たる2行分を削除しない限り、印刷や販売をしてはならないと命じた。判決は12万円の損害賠償も命じた。知事と講談社は即日控訴した。」(日本経済新聞2010年1月30日付朝刊・第38面)

著作権侵害と認定されたのは、被告書籍*1

「彼は、富士屋ホテルと結婚したようなものだったのかもしれない」

というくだりで、これと原告書籍*2

「正造が結婚したのは、最初から孝子というより富士屋ホテルだったのかもしれない」

というくだりが類似している→ゆえに複製権侵害・・・という結論だけ読めば、被告にとっては随分酷な、「センスのない」判断のようにも思えてしまう*3


だが、判決日から少し遅れてアップされた前記事件の判決文を実際に読んでみると、↑とは異なる印象を抱く人の方がむしろ多いのではないだろうか。


対比表等、原告書籍と被告書籍の相違を分かりやすく示した資料がアップされていない上に、本文だけで128頁もある長大な判決だけに、あまり丁寧に論じることはできないと思うが、以下では本件訴訟の核心にちょっとでも迫るべく、ささやかな分析を試みることにしたい。

東京地判平成22年1月29日(H20(ワ)1586号)*4

原告*5:A
被告:B、株式会社講談社


本件は、ノンフィクション作家であり、「富士屋ホテル」創業者の末裔として「富士屋ホテル」創業者から3代目までの事績に焦点を当てた書籍(原告書籍)を執筆した原告Aが、神奈川県知事である被告Bの著書(被告書籍)の中に、多数のA著作権の複製権・翻案権侵害箇所がある、と主張して、被告Bと被告書籍の出版社に対する差止請求及び損害賠償請求を行っている事案である。


原告が、複製権・翻案権侵害あり、と指摘した箇所は多数に上るようであるが、判決前の段階では、

「原告書籍上の各記述部分が表現上の創作性を有しており、これに対応する被告書籍の部分が原告書籍記述部分の複製・翻案に当たる」とされる15箇所(No.10、19、23、35、36、38、43、47、58、62、68、69,71、89、91)

「原告書籍上の各記述部分が、エピソード,事実,提示する資料・文献等の取捨選択,あるいは,これら資料などの引用,要約の仕方において表現上の創作性を有しており、これに対応する被告書籍の部分が原告書籍記述部分の複製・翻案に当たる」とされる「物語」X1〜X21の部分及び「物語」Y1〜Y5の部分*6

「対応する被告書籍の記述部分が、原告書籍の記述部分を要約・修正・増減したり,順序を変えるなどして,変形して制作されたものであり,原告書籍記述部分を翻案したものである」とされた「仙之助及び正造を主人公をした章全体」

と整理されている。


そして、「被告Bが,原告書籍に依拠して被告書籍を執筆した」ということが争いなく認められている(6頁)*7ことから、本件では、原告が指摘した前記「原告書籍に対応する被告書籍の記述部分」について、「複製・翻案」該当性が認められるか、が最大の争点となったのである。

裁判所の判断

裁判所は、原告書籍と被告書籍の対比判断をするにあたり、

「原告書籍のように,歴史的事実を素材として叙述されたノンフィクション作品においては,基礎資料からどのような歴史的事実を取捨選択し,その歴史的事実をどのように評価し,どのような視点から,どのような筋の運び,ストーリー展開,言い回し,語句等を用いて具体的に叙述したかといった点に筆者の個性が現れるものといえるが,著作権法は,思想又は感情の創作的表現を保護するものであり(同法2条1項1号参照),思想,感情又はアイデア,事実又は事件など表現それ自体でないものや,表現であっても,表現上の創作性がない部分は保護の対象とするものではないから,ノンフィクション作品においても,叙述された表現のうち,表現上の創作性を有する部分のみが著作権法の保護の対象となるものであり,素材である歴史的事実そのものや特定の歴史的事実を取捨選択したことそれ自体には著作権法の保護が及ぶものではないものと解される。」(57頁)

という考え方を示したうえで、翻案に関する江差追分事件(最一小判平成13年6月2日)のお馴染みの判旨を引用し、

「被告書籍記述部分がこれに対応する原告書籍記述部分の複製又は翻案に当たるか否かを判断するに当たっては,被告書籍記述部分において,原告書籍記述部分における創作的表現を再製したかどうか,あるいは,原告書籍記述部分の表現上の本質的特徴を直接感得することができるかどうかを検討する必要がある。」(57頁)

と述べている。


そして、その結果、冒頭で紹介したような「2行のみ」の侵害認定に至った。


侵害を肯定した部分の判旨は、↓のようなものとなっている。

「原告書籍記述部分は,(1)震災により富士屋ホテルが壊滅的な被害を受けた際に,正造の兄真一が故郷日光に帰参することを正造に勧めたが,正造がこれを拒絶したエピソード,真一が正造に日光帰参を勧めた真意は正造夫婦の不仲を察していたからかもしれないとの推測(略),(2)孝子及び正造の人物描写,正造と孝子が別れる場合には一方が富士屋ホテルを出て行かざるを得なかったこと(同潤・9),(3)大正15年に正造と孝子が離婚し,正造が富士屋ホテルにとどまり,孝子が出ていったこと(同潤・0)の記述に引き続いて,孝子は正造と離婚した後スコットランド人実業家と再婚したのに対し,正造は再婚することがなかった事実を指摘し,「正造が結婚したのは,最初から孝子というより富士屋ホテルだったのかもしれない。」と述べている記述である。」
「そして,原告書籍記述部分は,上記(1)のエピソードを経て,婿であった正造が孝子と離婚後も富士屋ホテルにとどまり,生涯再婚することなく,富士屋ホテルの経営に精力を注いだ事実について,「富士屋ホテル」を正造の結婚相手に喩えて,正造が「結婚した」のは「富士屋ホテルだったのかもしれない」と表現した点において,筆者の個性が現れており,創作性が認められる。」(72-73頁)

「他方,被告書籍記述部分(前段の下線部分)は,前記(1)ないし(3)の事実等の記述に引き続いて,孝子は正造と離婚した後スコットランド人実業家と再婚したのに対し,正造は再婚することがなかった事実を指摘し,「彼は,富士屋ホテルと結婚したようなものだったのかもしれない。」と述べている記述である。この被告書籍記述部分は,上記(1)のエピソードを経て,婿であった正造が孝子と離婚後も富士屋ホテルにとどまり,生涯再婚することなく,富士屋ホテルの経営に精力を注いだ事実について,「富士屋ホテル」を正造の結婚相手に喩えて,正造が「富士屋ホテルと結婚したようなものだったのかもしれない」と表現したものであり,原告書籍記述部分(下線部分)と実質的に同一の表現であるといえる。」
「したがって,上記被告書籍記述部分は,表現上の創作性を有する原告書籍記述部分を再製したものであって,しかも,被告書籍は原告書籍に依拠して執筆されたものであるから,上記被告書籍記述部分は,原告書籍記述部分の複製に当たる。」(74頁)

このように、裁判所は原告が指摘した15箇所のうち「1カ所」のみについて侵害を肯定する一方で、その他の14箇所や、より広い「物語」「章」部分については、

「述べられている趣旨は共通するものの,その具体的内容及び具体的表現は異なる」

などと述べて侵害を否定したのである。

苦渋の決断?

さて、今回の判決を読んで、様々な違和感を抱く人が多いことだろう、と思う。


まず、複製権侵害を肯定した箇所について。


被告も主張していることだが、個人的には、「〜と結婚したようなもの」という表現は,何かに一心不乱に打ち込む状態を表すありきたりな言い回しにすぎず、この種の表現の類似性をもって、複製権侵害を肯定するのはいかがなものか、という思いは残る。


裁判所は、被告の反論に応答して、

「原告書籍記述部分のように短い文章の表現の創作性の有無を判断するに当たっては,当該記述部分の前後の記述をも踏まえて,当該記述部分がいかなる脈絡の下で,どのような内容を表現しようとしたものかをも勘案して総合的に判断すべきであり,また,語句や言い回しそのものはよく用いられるものであっても,ある思想又は感情を表現をしようとする場合に多様な具体的表現が可能な中で,特に当該語句や言い回しを選んで用い,当該語句や言い回しを含む表現がありふれたものといえない場合には,表現上の創作性を有するというべきである。」
「これを前提に検討すると,婿であった正造が,上記(1)のエピソードを経て,孝子と離婚後も富士屋ホテルにとどまり,生涯再婚することなく,富士屋ホテルの経営に精力を注いだ事実を表現する場合には,多様な具体的表現が可能であって,その中で,「富士屋ホテル」を正造の結婚相手に喩えて表現した原告書籍記述部分は,筆者の個性が現れており,ありふれた表現とはいえないから,被告らが主張するように「〜と結婚したようなもの」という言い回しそのものが何かに一心不乱に打ち込む状態を表す際に用いられる表現であるとしても,そのことをもって原告書籍記述部分が表現上の創作性を有することを否定することはできない。したがって,被告らの上記主張は,採用することができない。」(73-74頁)

と述べているが、「生涯再婚することなく,富士屋ホテルの経営に精力を注いだ事実を表現する」ために、他にどんな「多様な具体的表現」がありうるのか、当の裁判所(判決を書いた裁判官)自身が十分なアイデアを持っているとは思えない*8


後述するような事情から、裁判所としては、“相対的に”表現上の類似性が強いこの箇所で侵害を肯定する必要性を感じていたのかもしれないが、自分は、被告書籍の本質的な問題(後述)から離れて、こんな瑣末なところで強引に侵害を肯定してしまったことが、この判決自体の価値を貶めているような気がしてならない。



一方で、本件の事案を見る限り、判決において“被告が負けた”部分が前記侵害肯定箇所1ヶ所だけ、という結論にも大いに違和感がある。


仮に、控訴審において、先に述べたような侵害認定の不自然さを指摘され、原審の判断が覆されれば、原告の請求が全部棄却される、という結論も考えられなくはないのだが、果たしてそのような結論が、本件の解決として妥当なのだろうか?


判決文に顕れている事情も見る限り、被告書籍の原告書籍に対する依拠は、単なる「参考文献」としての域を遥かに超えているように思えてならない。


例えば、侵害が否定された「X14」について、原告の主張を引用すると、

「原告書籍記述部分においては,正造を描くに当たって,「懐想録」(乙3)の18ないし49頁に記載された数あるエピソードの中から,以下のようなエピソードを取捨選択し,以下のような流れで記述した点に原告の独自性があり,創作性を有する。
(1) ロンドンで日本大使館へ駆け込む。
(2) 最初は断られるがあきらめずに大使と直談判
(3) ボーイとして採用
(4) 2年後に大使帰国で失職
(5) 二人の柔道家との出会い
(6) ロバート・ライトの柔道場で柔道を教えると同時に興行
(7) ライトのあくどさに気づき,独立
(8) マネージャーと実演
(9) 当時の異国ではまだ柔道は珍しかったので技術がなくとも何とかなった。
(10)3人は有名になる。
(11)ロンドン警察,オックスフォード大,ケンブリッジ大で教えるようになる。
(12)自前の柔道学校開校
(13)渡米から5年,22歳の時には,11室の豪邸,6人の使用人を雇うまでに成功する。
他方,被告書籍記述部分においても,以上の各エピソードの選択及び記述の流れが,原告書籍記述部分とほぼ共通しており,原告書籍記述部分と同一性又は類似性がある。」
「なお,「懐想録」(乙3)の30頁1行目には,「漂流轉々六年・・・」とあり,原告書籍記述部分において「渡米から五年」と記載したことは誤りであるが,被告書籍記述部分においても,「日本を離れて五年」と全く同じ誤りが認められる。また,正造と二人の柔道家との出会いについて,被告書籍記述部分では,「職を求めてさまよっていた街中で,谷と三宅という二人の柔道家と知り合い」とあるが,「懐想録」には「谷及び三宅の兩柔術手を訪問した」とあり,街中で出会ったことにはなっていない。これは,原告書籍記述部分にある「二人の柔道家との出会いが彼の運命を大きく変えた」の「出会い」という記述に,被告が引きずられたものと思われる。これらのことからも,被告書籍記述部分が原告書籍記述部分を模倣して作成されたことが強く推認される。」(22-24頁)

ということであるし、同じく、「正造の章」に関する原告の主張を引用すると、

「原告書籍記述部分は,多数ある正造に関するエピソードの中からわずかのもの(「八十年史」に記載されているエピソードのうち8%)を取捨選択したものであるにもかかわらず,そのうちの大半のエピソードが被告書籍記述部分においても取り上げられていること,被告書籍記述部分においてのみ取り上げられているエピソードはほとんどないこと(「八十年史」に記載されているエピソードのうち0.31%)からすれば,被告書籍記述部分が,原告書籍記述部分に大きく依拠し,原告書籍記述部分における事実等の取捨選択の独自性・創意工夫を盗用していることは明らかである。(34頁)」

ということである。


歴史的事実そのものの記述に著作権法上の創作性を認めるのは、現在の著作権法の解釈上は無理と言わざるを得ないだろうが、「素材の選択や配列」となれば話は別だ*9


伝記的な性格を持つノンフィクション作品が、「既存の事実の集積」という編集著作物的要素も備えているモノであることを考えると*10、その中でなされた「素材の選択や配列」を具体的な表現とは別に保護する余地も十分にあるのではないかと思う。


裁判所は、前記原告の指摘箇所について、

「前記・・・の事実は,「懐想録」のみならず,「八十年史」(略)や「ホテルと共に七拾五年」(略)にも記載されている事実であり,しかも,正造の事績や人物像を描くに当たって,正造が若くして海外に渡り,様々な苦労を経験した事実に触れることは当然のことであるし,その中でも,イギリスにおいて豪邸に住むまでの成功をおさめるに至った経緯について述べることは自然なことであるから,上記の各事実を取り上げて記述したことに格別の独自性があるとはいえないし,また,これらの事実を取捨選択したことそれ自体に原告書籍記述部分における表現上の本質的な特徴があるといえるものでもない。さらに,原告書籍記述部分の記述の流れも,時系列に従ったもので,やはりそれ自体に,表現上の本質的な特徴があるとはいえない。このことは,「ホテルと共に七拾五年」における上記記載部分においても,おおむね上記の各事実が同様の順序で記述されていることからも明らかである。」(X14について、104頁)

「原告が原告書籍記述部分と被告書籍記述部分との間で同一性又は類似性が認められるとして指摘する上記の箇所(ただし,別紙対比表1の潤・1の前段の下線部分を除く。)については,各被告書籍記述部分は,これに対応する各原告書籍記述部分を再製したものではないこと,上記各被告書籍記述部分から,上記各原告書籍記述部分における創作性のある表現上の本質的な特徴を直接感得することはできないこと,別紙対比表1の潤・1の前段の下線部分の複製部分は,原告書籍記述部分全体からみるとごく一部の記述部分であることに照らすならば,原告書籍記述部分全体と被告書籍記述部分全体とを対比してみても,後者が前者の翻案に当たらないことは明らかである。」(正造の章について、122頁)

と、いずれも侵害を否定しているのだが、前者(X14)はともかく*11、後者については、「具体的な表現」の類似性にこだわらない、もう少し違った切り口からの判断も成し得たように思えてならないのである。


裁判所が、結論として「2行分」だけでも著作権侵害を肯定したことで、被告側は事実上現在流通している書籍と同一の書籍を増刷して発行することが不可能となった。


ゆえに、被告書籍の悪質なフリーライドぶりを憂いた裁判所が、原告側に何とか“実を取らせようとした”結果が先ほどのような強引な侵害認定につながった、という見方もできるところである。


だが、やはり自分としては、こういった“隅っこの部分”でぐちゃぐちゃやるより、原告書籍と被告書籍の類似性を真正面から対比して結論を出すアプローチの方が、事案を解決する上では好ましかったように思えてならない*12


なお、冒頭で紹介した日経紙の記事の片隅には、当事者である松沢成文知事のコメントとして、

「当方に敗訴の部分があるというのは到底受け入れられない」

という一言が掲載されているのだが、元々原告が苦労して調べ上げた先祖の歴史*13を、被告側がほぼ丸々拝借する形でフリーライドしたことが本件紛争につながったのは明らかであるように思えるだけに、あまり強気になるのもどうかなぁ・・・というのが、率直な感想である。


(補足)
以下、参考文献。読者の方のレビューも興味深いところ。


破天荒力──箱根に命を吹き込んだ「奇妙人」たち

破天荒力──箱根に命を吹き込んだ「奇妙人」たち


箱根富士屋ホテル物語

箱根富士屋ホテル物語

*1:「破天荒力箱根に命を吹き込んだ「奇妙人」たち」

*2:「箱根富士屋ホテル物語【新装版】」

*3:認容された損害賠償額はわずか12万円に過ぎないが、判決は「侵害部分の2行をを削除しない限り,被告書籍を印刷,発行又は頒布してはならない」旨も合わせて命じており、これを履行するための出版社の負担は甚大なものになると推察される。

*4:第46部・大鷹一郎裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100203153359.pdf

*5:なお、判決文の当事者の表示においては「反訴原告」となっている。おそらく、本件紛争が「反訴被告」側の債務不存在確認訴訟の提起から始まったがゆえ、だろうが、以下ではその辺はあまり気にせず、「反訴原告」=「原告」、「反訴被告」=「被告」という表示で揃えることにしたい。

*6:対比表がないので正確には分からないのだが、Y1〜Y5は、X1〜X21を含むより広いまとまりにおいて、被侵害箇所を特定したもののようである。

*7:被告書籍の「参考文献」欄にも、原告書籍が挙げられている。

*8:おそらく、上記のような前提であれば、10人中8,9人は「〜と結婚したようなもの」という表現を用いることだろう。

*9:その意味で、本判決の書き方(「特定の歴史的事実を取捨選択したことそれ自体には著作権法の保護が及ぶものではない」とする)は、やや微妙だが、ここでは、取捨選択後の配列等についてまで著作権法上の保護を否定したものではない、というふうに読んでおきたいと思う。

*10:中山信弘著作権法』(有斐閣、2007年)117頁参照。中山教授は「(伝記や教科書は)素材の選択や配列だけではなく、自己の文章等のなかにその素材を散りばめている」ものである、として、結論としてこれらを「編集著作物」とは異なるものと規定されている。しかし、そのことは、伝記等の編集著作物的要素を備えた「通常の著作物」において、「素材の選択や配列」の創作性を保護しない、というまで意味するものではないと思う。

*11:原告書籍以外にも、同様の事実を同じような順序で並べた書籍がある、ということは、選択・配列の創作性そのものを否定する事情となりうるだろうから。

*12:仮に著作権侵害が認められなかったとしても、一般不法行為を肯定することでフリーライドを正面から糾弾する、というやり方もあると思う。この辺は当事者の主張の組み立て方如何によるが。

*13:本件で問題になっている山口仙之助にしても山口正造にしても、お世辞にも歴史上の人物としてメジャーとはいえない人々である。