「法律書」に課された高いハードル。

提訴時からいろいろと話題になっていた(らしい)「過払い金回収ガイド」本の著作権侵害事件。

自分は当時の記憶があまりないし、このブログでも取り上げてはいなかったと思うのだが、訴えられた弁護士は、当時何かとメディアに露出していた有名人だったし、同弁護士が代表社員となっている弁護士法人も当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったから、ニュースバリューとしてはそれなりに大きかったのだろう。

そんな訴訟の判決が、提訴から2年以上経ってようやく出された。
そして、最近では知財分野ではかなりマイナーな存在になってしまった名古屋地裁の判決、ということもあり、判決から2ヶ月以上経って、ようやく最高裁HP経由で我々の目に触れることになった。

「法律関連本」を巡って争われた事件ゆえ、結果的には、大方の人々が想像したとおり、「著作権侵害を否定」という結論に収まっているのだが、争点になっている部分にも、そうでない部分にも、いろいろと示唆的なエッセンスが含まれている事件だと思われるため、ここで簡単にご紹介しておくことにしたい。

名古屋地判平成23年9月15日(H21(ワ)第4998号)*1

アップされた判決では省略されているのだが、原告らは、(おそらく)愛知県弁護士会に所属し、名古屋消費者信用問題研究会の会員となっている弁護士たち。
被告は某有名弁護士(Y1)と、その弁護士が代表社員を務める弁護士法人(Y2)である。

そして、原告らが執筆し、平成18年2月16日(「Q&A過払金返還請求の手引・第2版」)、平成18年11月30日(「[過払金回収マニュアル]サラ金消費者金融からお金を取り返す方法」)にそれぞれ出版された書籍と、Y2が監修して平成19年5月19日に出版された書籍(「ひとりで出来る 過払い金回収完全ガイド」)、Y1が執筆して平成20年2月10日に発行された書籍(「知らないと損をする!過払い金回収ガイド」)の中の表現が類似しており、著作権侵害にあたる、という原告の主張に対し、被告らが各表現の著作物性や、故意過失の有無等について争うことにより、著作権侵害紛争における典型的な対立構造が形成されることになった*2

判決中の原告の主張によれば、原告が主張した類似箇所は、各書籍中に40か所弱ある。

また、被告Y2が監修した書籍には、(民事訴訟の話をしているにもかかわらず)「第1回公判前の和解」という極めて素人的な凡ミスの記載があり(正しくは「第1回口頭弁論前の」和解なり取下げなり、と記すべきところである)、それが原告書籍の表現と一致している、ということで、被告側の依拠性は否定しがたいところであった。

裁判所の冷淡な判断

さて、上記のような状況で裁判所は、著作権侵害に関する判断を下したのだが、それは原告にとっては実に冷淡なものであった。

裁判所はまず、ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー事件最高裁判決、江差追分事件最高裁判決の有名な判旨を引用した上で、「法律問題の解説書」の著作権侵害(複製権、翻案権侵害該当性)について、以下のような論旨を展開している。

「本件における原告各書籍及び本件各書籍のような法律問題の解説書においては,関連する法令の内容や法律用語の意味を整理して説明したり,法令又は判例,学説によって当然に導かれる一般的な法律解釈や実務の運用等を解説するなどし,それらを踏まえた見解を記述することが不可避である。しかるに,既存の著作物とこれに依拠して創作された著作物との同一性を有する部分が,法令や通達,判決,決定等である場合には,これが著作権の目的とすることができないものである以上(同法13条参照),当該法令等の記述そのものが複製,翻案となることはないのはもちろん,同一性を有する部分が,法令や判決等によって当然に導かれる事柄である場合にも,創作的に表現した部分において同一性を有するとはいえないから,当該部分に係る記述も複製,翻案には当たらないと解すべきである。」
「また,手続の流れや法令の内容等を法令の規定や実務の取扱いに従って図示したり図表にすること,さらには,手続上通常用いられる書面の書式を掲載することはアイデアの範ちゅうに属することであり,これを独自の観点から分類し,整理要約したなどの個性的表現がされているといった格別の場合でない限り,そのような図示,図表や書式は,創作的に表現した部分において同一性を有するものとはいえないから,複製,翻案に当たらないと解すべきである。」
「さらに,同一性を有する部分が,ある法律問題に関する筆者の見解又は一般的な見解である場合にも,思想ないしアイデアにおいて同一性を有するにすぎないから,一般の法律書等に記載されていない独自の観点からそれを説明する上で通常用いられる表現にとらわれず,独自の表現を用いて整理要約したなど表現上の格別の工夫がある場合でない限り,複製,翻案に当たらないと解される。」
「そして,ある法律問題について,関連する法令等の内容や法律用語の意味を説明し,一般的な法律解釈や実務の運用等を記述する場合には,確立した法律用語をあらかじめ定義された用法で使用し,法令等又は判例等によって当然に導かれる一般的な法律解釈を説明しなければならないという表現上の制約がある。そのため,これらの事項について説明する場合に,条文の順序にとらわれずに,独自の観点から分類し,通常用いられる表現にとらわれず,独自の表現を用いて整理要約したなど表現上の格別の工夫がある場合でない限り,筆者の個性が表れているとはいえないから著作権法によって保護される著作物としての創作性を認めることはできず,複製にも翻案にも当たらないと解すべきである。」(30-31頁)

法律問題について、法律の規定等に忠実に解説を行おうとすれば、誰が書いても同じようになってしまう表現というのは必ず出てくるし、そういう表現が大部分を占めることも稀ではないだろう。

そして、上記判旨が例示するような「独自の観点から分類し、・・・独自の表現を用いて整理要約」するといった手法を取るならば、それはもはや「法律書」という範疇を離れた、ある種の“読み物”に陥ってしまう可能性を否めないわけで、あくまで「法律」の解説、という体裁を装おうとする限り、大なり小なり似たような内容の表現になってしまうことは否めない。

そういう観点からすれば、名古屋地裁が示した論旨は、決してとっぴなものとは言えないし、法律にかかわるものとしては、その方がむしろ有難い、ということもできるだろう。

裁判所もそのような価値判断に立ったのか、原告が類似すると主張する各表現について判断を行うにあたって、

「表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分であり、著作物としての創作性が認められない」

というフレーズをひたすら多用し、結果、すべての同一・類似表現について著作物性を否定することにより、複製、翻案該当性を否定した。


法律解説書籍において、ある程度同種書籍と似た表現が多用されていても「著作権侵害」は認めない、というのが、かつて知財高裁が示した考え方だったから*3、この辺の結論については、概ね予測がつくところである。

また、今回の判決中に顕れている原告の主張の中には、あまりに著作権による保護を意識し過ぎたのか、ちょっと首を傾げたくなるような主張も混ざっており*4、ありふれた表現に無理やり著作物としての創作性をもたせようとしているのでは?と思ってしまうくだりも多い*5

そうでなくても、「裁判所が著作権を認めたがらない」という定説が根強い法律書籍の著作権侵害事件において、原告側が説得力のある主張を展開できなかったとなれば、“冷淡な判断”を食らうのもやむを得ないと言わざるを得ないだろう。

なお、本件では、個々の表現の同一・類似性だけでは被告を追い詰められなかった原告らが「法令、判例、学説や実務の運用から当然に導かれる事項を普通に用いられる言葉で表現した場合であっても、同一性を有する表現が一定以上の分量がある場合には、複製権侵害となる」旨主張しているが、これについても裁判所は、

「原告各書籍と本件各書籍とは,その対象とする主な読者,執筆の目的・方針が異なる上,記載順序,章立て,項目立てがそれぞれ異なること原告らが同一性,類似性を指摘する部分は,本件各書籍の5分の1にも満たないものであることなどが認められる。これらの事実関係に鑑みれば,本件各書籍は,いずれも,当該書籍を全体として見れば,著者の思想を創作的,個性的に表現した著作物と認められるものであって,原告各表現と本件各表現につき,同一性を有する表現が一定以上の分量があるということもできないから,本件各書籍が原告らの複製権を侵害するものであるということはできない。」(40-41頁)

として原告らの主張を退けている。

そもそも「著作物性がない表現」を大量に積み重ねたところで、(編集著作物と認められるような場合であればともかく)「複製権侵害」という話になるのか、大いに疑問のあるところなのだが、それをさておいても、「同一性、類似性を指摘する部分が5分の1にも満たない」というレベルでは、「著作権侵害」の筋で勝負の土俵に上がるのは少々苦しかったのではなかろうか。

勝負の分かれ目

ところで、著作権侵害が否定されても、不法行為の成立を認めて損害賠償請求を一部認容する、というのは、かつての塚原コート(知財高裁第4部)などでよくみられた手法であり、本件でも、著作権侵害が否定された時点で、こちらの可能性もまだ一応は残っていた。

なぜなら、先に紹介したとおり、本件では、被告側にかなりの依拠性が推認される状況だったから、である。

Y2が監修した書籍については、名義上の執筆者が“法律の素人”だったことが認定されているし、Y1執筆書籍にしても、Y2監修書籍をベースにしたものであることは争われていないから*6、Y2監修書籍において不法行為が成立するようなことになれば、Y1に至るまで責任を負わせることも、一応は可能であっただろう。

だが、裁判所は、この点についても原告らの主張を退けている。

本件各書籍は,原告各書籍とは異なる部分が相当程度あり,その基本的構成,章立て等も含めて見ると,原告各書籍とは,全体的な印象も含めて基本的に異なる書籍ということができること,そして,本件各表現と原告各表現で表現の同一性,類似性を有するとされている部分は,過払金や訴訟の仕組み等を読者向けに説明する際の表現として,創作性の認められないものであることに鑑みると,被告Y2が本件書籍1を監修した行為,被告Y1が本件書籍1に依拠して本件書籍2を作成した行為が,公正な競争として社会的に許容される限度を逸脱した不公正な行為として不法行為を構成するとまで認めることはできない。」(41-42頁)

「通勤大学」シリーズの事件で知財高裁が用いた判断基準が必ずしも用いられてはいないようにも見受けられるが、「全体的な印象の違い」や「原告・被告各書籍のコンセプトの違い」、そして何よりも類似している箇所の分量の少なさが判断に影響を与えたといっても良いのではないかと思うところ。

かくして、原告らの主張は、無残にもすべて棄却されることになった。


著作権侵害の主張はともかく、こちらの主張の方は、もう少し力を入れて主張すれば、上に行ってもう少しは良い勝負ができるようになる可能性もないとはいえないだろう。

そろそろ過払い金ブームも、それを糧として成長してきた弁護士事務所のブームも下火に向かいつつある中、その「マニュアル」本をめぐっていつまでも争うのが得策かどうか・・・という素朴な疑問はあるものの、もうひと勝負の行方を、個人的には注視しておくことにしたい。

*1:第9部・増田稔裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20111121131356.pdf

*2:細かい論点としては、「監修者」であるY2に著作権侵害の調査義務があるか、という問題や、著作者人格権の行使を共同著作者全員で行う必要があるか、といった問題も提起されているのだが、結論としては、その判断にまで至ることなく、請求棄却の判断が示されている。

*3:知財高判平成18年3月15日(「通勤大学」事件)、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20060327162702.pdf。この原審では、一部の表現について東京地裁著作権侵害を肯定していたが、この控訴審判決では、そのような原審の判断を全否定した上で、不法行為に基づき原審とほぼ同額の損害賠償請求を認容する、という方法をとることにより、紛争を解決しようとしていた。

*4:例えば、過払金の返還を請求する際の「通知書」の書式について、「この種の通知書の記載内容は,法令,判例,学説から一義的に定まるものではなく,表現形式の選択の幅は極めて広い。原告表現(略)は,過払金の返還請求という重要な目的を達成するために必要な事項を端的に,また,交渉の相手方である貸金業者に対する礼を失しないように穏当かつ適切な表現を用いるという独自の工夫を凝らしており,創作性がある。そのうち,貸金業者に対するお礼のコメントは,貸金業者が取引履歴の開示に協力したことに対する謝意を示すための創意工夫であり,また,債務者の生年月日欄を記載した点は,ほとんどの貸金業者が氏名と生年月日で顧客を管理していることに着目した創意工夫である。」(10-11頁)といった主張をしているくだりなど。穏当な表現を用いることに「独自の工夫」と言われても・・・という気には、裁判所の中の人でなくてもなってしまう。

*5:双方の書籍の表現とその類似性を自分の目で確かめてみない限りは何とも言えないところはあるのだが、2年近くを審理に費やした訴訟において、原告側がこの程度の主張しかできていなかったのだとすれば、元々無理筋な事件だったのかなぁ・・・という感想を抱かざるを得ないのは事実である。

*6:テレビに出るほどの弁護士が、(自分の事務所が監修しているとはいえ)素人が書いた本を下敷きに自分の著書を書く、というのは、これまでならちょっと考えづらいところであうが、そういう時代になった、ということなのだろう・・・。

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