社会的責任が“刑事責任”に転化する時代

湯沸かし器による死亡事故をめぐり、メーカーの元社長らを業務上過失致死傷罪で有罪とする判決が下された。

「2005年11月、東京都港区でパロマ工業名古屋市)製湯沸かし器による一酸化炭素(CO)中毒が起き2人が死傷した事故で、業務上過失致死傷罪に問われた同社元社長、小林敏宏被告(72)ら2人の判決公判が11日、東京地裁で開かれた。半田靖史裁判長は小林元社長に禁固1年6月、執行猶予3年(求刑禁固2年)の判決を言い渡した。(日本経済新聞2010年5月12日付朝刊・第35面)

この日の記事にもあるように、この事件は「製品そのものの欠陥ではなく、修理会社が不正改造した製品の安全管理を巡」って刑事責任が問われた事件だったはずで、このような事例で「有罪」という判断が示されたことの意味は、とてつもなく大きい(もっとも、前記記事が正確な判旨を伝えているかどうかは微妙であるように思われ*1、判決がアップされるまでは何ともコメントし難いところはあるのだが・・・)。


製品等に起因して重大な死傷事故が発生したような場合には、それがいかなる理由によるものだったとしても*2、大なり小なり製品やサービスを提供した企業が「責任」を負う、というのが、平成年代以降、世の中に急速に浸透していった“ルール”だし、今後もこの傾向は強まることはあっても弱まることはないだろう。


だが、「社会的責任」というレベルにとどまらず、「法的責任」、特に「刑事責任」までもが“生じた結果の代償”として、(当該企業の“結果”への寄与の大小にかかわらず)容赦なく問われるようになってきたときに、世の中にどのような影響が生じるか、計り知ることは難しい。


もちろん、今回の判決とて、厳密な意味での“結果責任”を単純に肯定したわけではなく、過失犯の成立を認めるに際しての予見可能性なり結果回避義務なりに関して、何らかの“線引き”はしているはずなのだが、この先、今回の“有罪”という結論だけが安易に一人歩きするようなことがないかどうか・・・。


このまま本判決が確定するかどうか分からないが、まずは判決を緻密に検討した上で、射程がどこまで及ぶのか、しっかりと見極めることが大事だと思っている。

*1:例えば記事では、犯罪の成否に関する判断部分を紹介するくだりよりも「量刑の理由」の一節の方が長々と引用されていたりする。

*2:本件のように、第三者が決定的な事故原因を作出するパターンもあるだろうし、利用者自身の軽過失が介在して大事故につながるパターンもあるだろう。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html