世の中に出てから10年以上も経って、何度も繰り返される離合集散を脇で眺めていると、都度都度の「別れ」の場面に立ち会っても、あまり感動が湧かなくなってくるものだ。
元々自分は、そういうのに凄く弱くて、送別会なんかへの思い入れは人一倍強かったはずなのだが、多くの人と出会えば出会うほど、逆に、“一期一会”的な発想の方が強くなってきて、その分別離の際には淡泊になる。
人として成長した、ということなのか*1、それとも、感性が鈍磨しただけなのか、あるいは、「次に会えるのはいつか分からない」的なところにまで想像力を巡らす余裕がないだけなのか、は、良く分からないのだけれど、
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
と、井伏鱒二の訳詩を胸の中でボソッと唱えて、自分を納得させているのは確かである。
もちろん、心の中のどこかには、
さよならだけが人生ならば
また来る春は何だろう
・・・・
さよならだけが人生ならば
人生なんていりません
by 寺山修司
っていう、昔好きだったフレーズがよぎったりもしているのだけれど。
去り方は人それぞれ。胸を張って遠くに行く者もいれば、忸怩たる思いで次の“春”を待つ人もいる。
近くにいるからと言っていつでも会えるとは限らないし、いくら遠いといったって、狭い地球のこと、会おうと思えばいつでも会える。
この先、五年、十年、二十年・・・。
ある日を境に、出会い、別れた人たちの数と同じだけの人生が展開されていくことになるんだろうけど、自分は、そんな中でも自由に泳げる魚のままでありたい・・・
それが今の偽らざる心情だろうか。
*1:子どもの頃は、道路挟んだワンブロック隣に友達が引っ越すだけで(注:一応学区は変わるので「転校」ということにはなるんだが)メソメソ泣いてたりしたからなぁ(笑)。