刑事裁判の限界

2008年に千葉県沖で発生したイージス艦「あたご」の衝突事件で、業務上過失致死罪に問われていた当直士官(当時)2名に、横浜地裁(秋山敬裁判長)が無罪判決を言い渡した。

「公判では清徳丸の航跡を巡り検察側と弁護側が対立。秋山裁判長は「検察側が主張する航跡は、僚船船長らの証言を恣意的に用いており特定方法が不適切」として検察側の立証姿勢を批判した。その上で秋山裁判長は双方の主張とは別に、独自に清徳丸の航跡を特定し「衝突約3分前から2度右転し、衝突の危険性を生じさせた清徳丸側に回避義務があった」と認定。事故の主因をあたご側とした海難審判とは異なる判断を示した。」(日本経済新聞2011年5月11日付け夕刊・第1面)

元々、事故発生直後から、帰還した漁業関係者の記者会見の不自然さなど、「あたご」側に一方的に非がある、というには憚られるような“疑惑”が種々報じられていた事件だし、いかに見張りが不十分だったとしても、そもそも前提となる「回避義務」が存在しない、ということになれば、少なくとも刑事上の「過失」があたご側の関係者に認められることはない、というのは当然の理である。

とはいえ、海難審判所の審判では2年以上前に「事故の主因はあたご側にある」という認定がなされていたこの事件で、被告人両名が「無罪」ということになれば、

「まさか無罪になるとは」
「納得できない」
(同上・第15面)

という遺族らの憤りが出てくることも一応理解できるところ。

また、双方の主張から離れた「独自の航跡認定」に至った地裁の事実認定手法も、おそらく控訴審で厳しく精査されることになるだろう*1

* * *

判決文はまだ裁判所のHP等にもアップされていないようだし、事実認定がキモとなるこの種の事件において、裁判記録に目を通せる立場にない以上、地裁の判断が妥当かどうか、ということについて、筆者が法的見地から論評を加えるようなことは到底できない。

ただ、一つだけ言えることは、事実認定をめぐる争いが主戦場となっている事案において、

「刑事裁判を行うことで真実が明らかになる」

ことを期待するのは、元々かなり無理がある、ということである。

一部の動かし難い客観的証拠を除き、捜査報告書や第三者証言等を中心とする伝聞証拠の多くは、裁判の過程で弁護人側から不同意意見を出されてしまうため、現実に書類の形で裁判資料として法廷に顕出するのは、膨大な記録の中のほんの一部だけ、となってしまうことも珍しくない*2

そして、いかに証人尋問を行ったところで、せいぜい数十分程度の時間の中で、周辺事実も含めた「全容」を語ってもらうのは至難の業で、結局のところ、裁判所は限られた断片的情報を元に事実認定を行わざるを得ない、ということになる。

そうなると、いかに事件関係者が、

「裁判を通じて真実が明らかになってほしい」

と願ったとしても、上記のような我が国の刑事裁判の手続構造上、自ずから限界はあると言わざるを得ないだろう。


遺族に必要以上の期待感を抱かせず、判決結果による失望を味合わせないためには、

「この世に絶対的な真実はたった一つしか存在しないとしても、そこに辿りつくための手段方法として、刑事裁判というツールは決して最良のものではない(むしろ、刑事制裁を目的としない事故調査委員会等の調査に比べて、かえって事実認定手法としての精度は落ちる)」

ということを、もっと広く世に知らしめる必要があるのではないかな・・・と、今回の一連の報道に接して思った次第である*3

*1:そもそも本件において、検察の主張に合理的な疑いを差し挟むにとどまらず、あえて独自に航跡を特定して「回避義務不存在」とまで断定する必要があったのかどうか等々・・・、素朴な疑問は生じるところである。

*2:最近では自白事件でも、“証拠の厳選”なんてことが言われているがゆえに、法廷に出てくる証拠が少なくなっていて、事件の真相解明という観点からは、ちょっとどうかな・・・というものが増えているという話もあちこちで聞くところであるが。

*3:まぁ、法律上も、刑事訴訟を担当する裁判所の基本スタンスにおいても「事案の真相解明」が裁判の一つの目的として掲げられている以上、正面切ってこういった事情を“PR”するのは、難しいだろうなぁ・・・というのも理解できるのだけれど。

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