平成21年に「裁判員が刑事裁判に参加する」という制度が導入されて以来、「この制度は違憲ではないか?」という問いかけが、これまでに何度となくなされてきた。
しかし、現在に至るまで裁判員裁判を「違憲」と断言する研究者にはそんなにお目にかかったことはないし、これまで高裁レベルでこの争点について出されてきた判決も全て「合憲」という判断を下してきている。
そんな中、最高裁が、言わば“模範解答”とも言うべき判決を出した。
「裁判制度について裁判所に判断を求めたところで、現在の制度を否定するような答えを出すはずがないではないか!」(何たって、裁判所というのは、この国に残された官僚の最後のサンクチュアリなのだから・・・(笑))
というシニカルな評価もあるだろうが、ここは一つ、最高裁がいかなる理屈で「裁判員裁判」を肯定したのか、ということについて、簡単に見ていくことにしたい。
最大判平成23年11月16日(H22(あ)第1196号)*1
本件において、弁護人は上告理由の中で、様々な観点から裁判員制度の違憲性を主張したようであるが、そういったいくつかの理由のうち、最高裁がもっとも力を入れて論じたのが、「国民が裁判体の構成員となり裁判を行うこと」が許容されているかどうか、という点であった。
判決では、まず、「憲法に国民の司法参加を認める旨の規定が置かれていない」ということを認めつつも、
「明文の規定が置かれていないことが、直ちに国民の司法参加の禁止を意味するものではない」(2頁)
という理を述べ、参加が許容されるか否かについては、「憲法が採用する統治の基本原理や刑事裁判の諸原則、憲法制定の経緯、憲法の関連規定の文理」などを総合的に検討して判断すべき事柄、とした。
そして、憲法が「刑事裁判の基本的な担い手として裁判官を想定している」としつつも、新憲法において「裁判官による裁判」ではなく「裁判所による裁判」へと表現が改められたこと、「第6章 司法」において、下級裁判所が裁判官のみで構成される旨が明示されていないこと、そして憲法制定過程における文理面からの解釈等について指摘し、
「刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図ることと,憲法の定める人権の保障を全うしつつ,証拠に基づいて事実を明らかにし,個人の権利と社会の秩序を確保するという刑事裁判の使命を果たすこととは,決して相容れないものではなく,このことは,陪審制又は参審制を有する欧米諸国の経験に照らしても,基本的に了解し得るところである。」
「そうすると,国民の司法参加と適正な刑事裁判を実現するための諸原則とは,十分調和させることが可能であり,憲法上国民の司法参加がおよそ禁じられていると解すべき理由はなく,国民の司法参加に係る制度の合憲性は,具体的に設けられた制度が,適正な刑事裁判を実現するための諸原則に抵触するか否かによって決せられるべきものである。換言すれば,憲法は,一般的には国民の司法参加を許容しており,これを採用する場合には,上記の諸原則が確保されている限り,陪審制とするか参審制とするかを含め,その内容を立法政策に委ねていると解されるのである。」(4-5頁)
という解釈を導いた。
さらに、弁護人側が違憲根拠の一つとする憲法80条1項(下級裁判所裁判官の任命等)それ自体は、「裁判所が裁判官のみによって構成されていることを要求」するものではない、とした上で、「裁判員制度」の仕組みについて敷衍し、最終的に、
「このような裁判員制度の仕組みを考慮すれば,公平な「裁判所」における法と証拠に基づく適正な裁判が行われること(憲法31条,32条,37条1項)は制度的に十分保障されている上,裁判官は刑事裁判の基本的な担い手とされているものと認められ,憲法が定める刑事裁判の諸原則を確保する上での支障はないということができる。」(7頁)
として、弁護人側の憲法31条、32条、37条1項、76条1項、80条1項違反の主張をすべて退けたのである。
こうなってくると、それ以外の弁護人側の主張を退けること自体は、さほど難しいことではない。
憲法76条3項違反、2項違反といった主張に対しては、「裁判官が自らの意見と異なる結論に従わざるを得ない場合があるとしても、それは法律に拘束される結果であり、憲法違反の問題は生じない」、「地方裁判所に属し、高裁への控訴等も可能な裁判体が特別裁判所にあたらないことは明らか」と明確に“反論”しているし、裁判員の視点から、出頭を義務付けられること等が憲法18条後段違反(意に反する苦役)にあたる、とする主張に対しても、裁判員の職務の性質論や、辞退に関して柔軟な制度を設けていること等から、「「苦役」に当たらないことは明らか」とまで述べている。
かくして、弁護人の上告理由はすべて退けられ、「裁判員制度を定める裁判員法に憲法違反はない」と断じられるに至った。
最高裁が示したいずれの「回答」も、これまでに有識者が論じ、解釈を唱えていた範囲を逸脱しているものではなく、答えを出すならこうだろう、というところを無難に押さえたものになっている。
弁護人としては、「裁判員制度反対」というポリシーの有無にかかわらず、有罪判決必至の被告人のために何としたい、という思いで一連の主張を続けてきたのかもしれないが、その結果、最高裁が自ら「書きたくて仕方なかった」のかもしれない「裁判員制度合憲論」を書く機会を与えてしまい、しかも、被告人本人の未決勾留期間もより長期化させる結果となってしまった*2。
今回の判断を見て、弁護人が「こうなることは分かっていた」とあきらめの境地に達したのか、それともあくまで「納得いかない」として、別の訴訟等に戦場を移して再び同種の主張をして回るのか・・・は分からないが、訴訟戦術という観点からは、いろいろ考えるべきところは多いように思う。
なお、最高裁は、判決の最後の項の中で、「付言」のような形で、以下のようなメッセージを発している。
「裁判員制度は,裁判員が個別の事件ごとに国民の中から無作為に選任され,裁判官のような身分を有しないという点においては,陪審制に類似するが,他方,裁判官と共に事実認定,法令の適用及び量刑判断を行うという点においては,参審制とも共通するところが少なくなく,我が国独特の国民の司法参加の制度であるということができる。それだけに,この制度が陪審制や参審制の利点を生かし,優れた制度として社会に定着するためには,その運営に関与する全ての者による不断の努力が求められるものといえよう。裁判員制度が導入されるまで,我が国の刑事裁判は,裁判官を始めとする法曹のみによって担われ,詳細な事実認定などを特徴とする高度に専門化した運用が行われてきた。司法の役割を実現するために,法に関する専門性が必須であることは既に述べたとおりであるが,法曹のみによって実現される高度の専門性は,時に国民の理解を困難にし,その感覚から乖離したものにもなりかねない側面を持つ。刑事裁判のように,国民の日常生活と密接に関連し,国民の理解と支持が不可欠とされる領域においては,この点に対する配慮は特に重要である。裁判員制度は,司法の国民的基盤の強化を目的とするものであるが,それは,国民の視点や感覚と法曹の専門性とが常に交流することによって,相互の理解を深め,それぞれの長所が生かされるような刑事裁判の実現を目指すものということができる。その目的を十全に達成するには相当の期間を必要とすることはいうまでもないが,その過程もまた,国民に根ざした司法を実現する上で,大きな意義を有するものと思われる。このような長期的な視点に立った努力の積み重ねによって,我が国の実情に最も適した国民の司法参加の制度を実現していくことができるものと考えられる。」(10-11頁)
「国民の司法参加」という観点よりも、「刑事裁判の判決の正統性の担保」という目的の方が、裁判所当局にとっては重要なのではないか(そしてそれを巧みに利用して従前どおりの刑事裁判の“伝統”の温存を図っているのではないか)、と思ってしまう今日この頃ではあるが、↑のような格調高い判旨を見てしまうと、なかなか嫌みもいいにくいわけで・・・。
いずれにしても、これで、裁判員裁判が当面の間、続いていくのは間違いない、という状況になっただけに、「制度そのもの」への実りなき批判はいい加減やめて、制度をいかに自分たちに有利に活用していくか、ということを、真剣に考えていかねばならない・・・そう思うところである。
*1:大法廷・竹崎博允裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20111116154348.pdf
*2:延びた勾留期間の分は、未決勾留日数として刑に算入されるから良い(今回の判決では390日が上告審分とされている)という考え方もあるだろうが、「裁判員制度が合憲か否か」といった自らが関与しえない“空中戦”のために、宙ぶらりんのまま時を浪費しなければならない、ということが、被告人にとって利益といえるのかどうか、疑問なしとはしない。