ヒーローは死して名を遺す。

練習中に倒れて意識不明の状態に陥っていた松田直樹選手が、急性心筋梗塞により34歳の短い人生を終えた。

彼がJ1でプレーしていた16年間、自分はもっぱら“憎き敵方の守備の要(しかも激しいプレーで味方のチャンスだけでなく、選手まで潰してくれる・・・)”という目でしか、松田選手を見ていなかったから*1、横浜のコアなサポーターが絶叫した昨年シーズン終盤の解雇劇も完全に他人事だったし、今年の春先、Numberで、「JFLで再起を賭けて頑張っている」という記事を見たときも*2、“気の毒だけど、まぁ頑張ってほしいわぁ”くらいな感想しか抱かなかった。

それゆえ、「練習中に倒れた」というニュースを聞いたときも、“不慣れな環境で無理したのが祟ったのかな・・・”と思ったくらいで、その先どういう展開になろうが、大して世間の注目を浴びることなくスポーツ紙の片隅の記事で終わってしまうだろう、と思ったものだ。

だが、表舞台から姿を消しても、「元日本代表」という金看板は色褪せていなかったらしい。

訃報から一夜明けたこの日は、一般紙でも比較的大きく“悲劇”として松田選手のニュースが扱われていたし、各テレビ局の報道も前日からこの日にかけて、アトランタ五輪シドニー五輪、そして日韓W杯といった、懐かしい代表での試合映像とともに、このニュースが報じられていた。


まだJFL移籍一年目で、昨年までJ1の大舞台でコンスタントに出場していた、というのが多くのサポーターや業界関係者の記憶に残っていた、というのが、幸いした面もあるだろう*3

また、日の丸を付けた一人の選手としてみれば、若い頃から年代別の代表で卓越した結果を残し、飛び級U-23に入ったアトランタ五輪で“マイアミの奇跡”を演出。さらにフル代表でも、トルシエの代名詞だった“フラット3”を常に構成し(最後はトルシエの戦法自体を自ら否定したが)、歴史に残る予選リーグ突破に貢献、と、残してくれたものが多いのは確かで、一連の報道も、その功績を称えるに相応しいもの、と言えるのかもしれない。


本人とて、こんなタイミングでサッカー人生どころか、自分の人生そのものを終えることになるなんて想像もしていなかっただろうし*4、自分が満足いくまで現役生活を全うし、その後スムーズに指導者に転身して自分の経験を伝えることができたなら、それが一番だったろう。

でも、周囲との衝突を厭わずに、プロサッカー選手としての自分の途を追及し続けたことが、「J1チームからのオファーなし」という昨年オフの結果につながった。そのことを考えれば、このままJFLで孤軍奮闘を続けても、その先の人生が開けたかどうか・・・*5

そう考えると、とても悲しい、あってはならない死、とはいえ、それによって、多くの人の記憶に、自らの遺した足跡とともに、「松田直樹」という名前を刻みこむことができた、というのは、“不幸中の幸い”だったと言えるのではなかろうか。


昨年オフの退団後、マリノスに欠番のまま残されている「背番号3」。

これでもし、このクラブが、「3」という数字を永久欠番にするようなことがあれば、ちょっとはこのクラブに対する自分の中の評価も変わるかなぁ・・・と思ったりもしている*6

*1:そもそも横浜マリノス、というチーム自体に、札束で城彰二選手を強奪したり、フリューゲルスを跡形もなく消し去ったり・・・という、よからぬ印象しか持っていないので、そんなチームの“顔”として“ミスターマリノス”だなんて言われていた選手を好きになるはずもない。

*2:http://number.bunshun.jp/articles/-/95074参照。

*3:これが大舞台を離れて久しい元日本代表FWのSとかOとかいう選手だったら(今でも現役で頑張っているんだけど・・・)、もっと微妙な扱いになっていたかもしれない。

*4:JFLではなく、もう少し練習環境やケア環境が整ったJクラブに移籍していたなら・・・という思いはよぎるが、それを言うのは、勇気ある決断をした本人に失礼、というべきか。

*5:この辺は、競技こそ違えど、先日悼ましい死を遂げた伊良部秀輝選手の生き方とも通じるような気がしてならない。

*6:選手との契約に関して非常にシビアなJリーグにおいて、同じ背番号を12シーズンにもわたって使い続ける選手、というのはなかなかいないわけで(プロ野球の世界でもいまどきそんなにいない)、ましてやこういう結末を迎えた、ということになれば、そう簡単に他の選手に付けさせるわけにもいかないだろう、と自分なんかは思ってしまうのだけれど。

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