この切なさが原点にある。

書く人によって当たり外れが大きい、と言われる日経紙朝刊の「私の履歴書」。
先月の連載なんかは、正直辟易するばかりだったが、今月の蜷川幸雄氏の連載は個人的にはツボである。

特に、7日付けの朝刊に掲載されたエピソードには、我が身を振り返って、グッと来るものがあった。

「日暮里と田端の間にあった開成中学に通うようになって、困ったのは成績ではなく、下校時の後ろめたさだった。川口駅から制服で帰ると、地元の中学に進んだ友達と毎日すれ違う。ひとりだけペンと剣の徽章のついた帽子をかぶっているのが恥ずかしい。皆が泥んこになって働いている川口から、自分から離脱したという思いに責められる。」(日本経済新聞2012年4月7日付け朝刊・第40面)

今では、東京23区以外でも、成績が良ければ中高一貫の私立に中学から行く、ということがそんなに珍しいことではないのかもしれないが、蜷川氏の通った時代はもちろん、今から四半世紀ほどしか離れていない自分が通っていた時代ですら、「東京近郊」から東京に通う者の心の中には、↑のような一種の“後ろめたさ”が常に付きまとっていたんじゃないかと思う。

少なくとも自分はそうだったから、地元の駅を降りる時には、徽章を外して、帽子を鞄の中にしまいこんで、私服に着替えるまではなるべく地元の友人達に合わないように・・・と気を遣いながら通ったものだ。


今考えれば、どうせ高校に入れば皆進路など分かれてしまうのだから、たかだか3年程度の違いを甘受すれば良かっただけの話じゃないか・・・と思うのだが、それをあっさりと受け流せないのが10代前半の心理だった、ということなのだろう。

当時の様々な思いを、最終的に演劇という芸術の世界に昇華させた蜷川氏ほどではないにしても、あの頃の記憶が、その後の自分の行動に与えている影響は決して小さくない、と思う。

外側の評価と、内側の心理のギャップに悩み、苦しんだ日々*1と、その後の開き直るまでのプロセスこそが、周囲のチンケな評価に惑わされることなく、道なき道を切り拓いていくための、自分の最大の推進力になっている・・・そう考えれば、決して悪い経験ではなかったはず。ただ、やっぱり、10代半ばの心の傷が疼き出して、あの頃の複雑な感情がフラッシュバックする瞬間は時々めぐってくるわけで、ちょっとした切なさが思い起こされる時もある。

もちろん、今は前進あるのみ・・・なのだけれど。

*1:当然ながら、それは中学の3年間だけで終わるような話ではなかった・・・。

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