悲しき知らせが蘇らせた記憶。

ネットニュースで、

中村勝広氏 急死」

という見出しが最初に目に入ってきた時、何とも言えない気持ちになったのは自分だけだろうか。

プロ野球阪神タイガースのゼネラルマネージャー(GM)で阪神オリックスの監督を務めた中村勝広(なかむら・かつひろ)氏が滞在中だった東京都港区内のホテルで死去したことが23日、警視庁への取材で分かった。66歳だった。」(日本経済新聞2015年9月24日付朝刊・第39面)

関西方面では大騒ぎになっているだろうが、関東の一般紙では社会面の片隅のベタ記事でしかない。

だが、90年代、負け続けるタイガースを東の方で熱狂的に応援し続けていた自分には、中村勝広氏のお名前が、絶望の中に微かな希望の光を見せてくれた名将の名として、深く心に刻まれている。

日本一になった翌年以降、吉田監督、村山監督と、坂道を転げ落ちるように下降線を辿っていたチームに、しかも“幻の一枝監督”騒動の後に、火中の栗を拾うがごとく就任したのが89年のオフ。

就任直後は、トレード戦略、外国人補強戦略の失敗等もあって、2年続けて「最下位」という屈辱を味わったものの*1、地道にチームの若返りを進めていった結果、1992年、大躍進のシーズンを迎える。

投げてはマイク仲田、中込、湯舟の先発3本柱と、弓長、田村といったブルペン陣が大奮闘(防御率リーグ1位)し、打ってはオマリー、パチョレックの外国人2枚看板と、若手トリオの亀山、久慈、新庄が躍動して、あれよあれよという間に優勝争いに。

9月上旬に破竹の勢いで連勝し、首位争いをしていたヤクルトまで葬り去って、世の中が“7年ぶりの優勝確実”というムードになり始めた時、自分は、「このチームを応援し続けていて本当によかった」と感涙に浸ったものだった・・・。

その後、慣れない首位争いによるプレッシャーと*2、敵将・野村監督のしたたかな戦略もあって、結局はぬか喜びに終わってしまったわけだが、最後にあえなく潰えてしまったからこそ、美しい思い出として残るものもあるわけで、あの夢のようなシーズンは、いろんな意味でどんよりと曇っていた当時の自分にとって、数少ない“色付き”*3のエピソードだったし、そのシーズンが、どんなに野次られても顔色一つ変えずに戦いきった中村勝広監督に対する自分の敬意を決定付けるものにもなった。

その後、フロントの奇怪な補強戦略*4や、パチョレック選手、オマリー選手の退団(そして、後継外国人の獲得失敗)もあって、中村監督の在任中に92年を超える成績を残すことはできなかったが、自分とは無関係の“国民的行事”で盛り上がった94年のシーズンも、9月中旬くらいまでは優勝争いに絡む戦いを見せている(最終順位は4位)*5

最後は、采配がスカタンとかなんとか言われて、シーズン途中での休養を余儀なくされたのだが、その後の、藤田、吉田、野村の3監督時代(6年)で最下位5回、5位1回、という惨状だったことを考えると、中村監督の6年間で2位1回、4位2回、という戦績がこの時期のタイガースにとってどれだけ驚異的なことだったか、自分がわざわざ説明するまでもないだろう。


タイガースを追われて以降は、「オリックスの人」という印象の方が強くなっていた時期が長かったし*6、2012年にタイガースに復帰してからも、手厳しい大阪のファンから暖かい評価を受ける機会は少なかったように思う。

70年代に名二塁手として活躍したタイガース生え抜きの選手*7だったにもかかわらず、関西方面での名声が最後まで高まらなかったのは、中村氏が千葉県出身(成東高校)で、かつ東京六大学の名門・早大野球部主将、という中央の華やか過ぎる経歴を持っていたからか*8、それとも、オーナーやフロントが迷走してどんなに理不尽な仕打ちを受けても、喧嘩ひとつせず淡々と自分の役割に徹していたことが、タイガースファンの気風に合わなかったのか・・・*9

後者の点については、2012年に中村氏がGMとしてタイガースに復帰された時、「監督時代に受けた理不尽な仕打ちを良い教訓にして、理想的なチーム編成をしてくれると良いのだけどなぁ・・・」と感じた人は多かっただろうし、自分も、「正しいことをしたければ、(我慢して良好な人間関係を築いて)偉くなれ」という教え(?)を地で行くような展開だなぁ、と思ったもので、今シーズンの藤浪投手の躍進など、就任以降の補強戦略も実りつつある状況だっただけに、志半ばでこのようなことになってしまったのは、ご本人もさぞかし無念だったことだろう。

ただ、この先、タイガースの球史の中で、中村氏の残した足跡がどんな扱いを受けようとも、「中村勝広監督」がユニフォームを着て、現場でチームを率いていた時代に球場に通い、実況のラジオにかじりついていた一ファンとして、自分が氏の功績を忘れることは決してない。

そして、亡くなる最後の日まで、GMとして球団に身を捧げた中村氏の、この3年間の尽力がやがて花咲くことを信じて、今は心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。

*1:確か同一監督での2年連続最下位は「球団史上初」だったはず。まだ当時は「最下位」になるのが珍しい球団だった。

*2:本拠地で連勝を重ねた後のロード初戦、一番大事な東京ドームでの巨人戦で、仲田幸司投手が初回メッタ打ちにされたシーンなどは、まさに未熟さの象徴だった。

*3:優勝争いまっただ中の試合で、白と黒と黄色でスタンドが埋め尽くされた・・・それも、甲子園ではなく「神宮球場」でその瞬間に立ち会えた、という記憶は永遠に消えることはないと思う(試合の結果はいま一つだったのだが、これまでの応援では感じたことのなかったような熱気に接することができた自分にとっては、そんなことはどうでもよくなるくらい感動的な景色だった。

*4:勝ち運にこそ恵まれていなかったものの、間違いなく球団屈指の好投手だった野田投手を放出し、ロートルの域に差し掛かっていた阪急戦士・松永を獲得する、という失態・・・。

*5:熱くなる巨中広のファンを横目に、“いやいや最後に勝つのはうちですよ・・・”とほくそ笑んでいた時もあった。1週間くらいでその野望はついえたが・・・。

*6:2003年から2009年までは、オリックス球団GM、監督等を務めていた。

*7:前記のとおり、自分は中村氏を非常にリスペクトしていたので、当時の活躍を調べたくて、図書館とか野球博物館の資料室とかに通ったこともあったなぁ・・・と。

*8:岡田元監督も早大出身だが、出身はバリバリ大阪なので、監督時代のファンの受け止め方もだいぶ違っていたような気がする。

*9:この点については、自分ももう少し監督の立場で物申した方がよいのでは…と思ったことが何度かあったが、ご本人は、喧嘩して現場を混乱させるよりは、安定して指揮を執り続けることを重視したのだろうか。いずれにしても組織人としては“鑑”のような存在だったし、前後の混乱に比べれば、中村監督在任中のチームが遥かに安定していたのは間違いない。

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