無謬性への固執が招いた“自滅”

本年6月、東京高裁が再審開始を決定し、約10年ぶりに法廷に戻ってきた、「東電女性社員殺害事件」。

当初は、検察側で再度、科学的証拠を基に主張を組み立て直して争うだろう・・・という観測が強かったこの事件だが、再逆転を狙った追加鑑定で、

「被害女性(当時39)の爪の付着物から第三者のDNA型が検出された」(2012年10月29日付夕刊・第15面)

という事態に至ってしまったことで、とうとう、検察側が被告人の無罪を論告で主張せざるを得ないところにまで追い込まれてしまった。

訴追側が自ら再審の論告で「無罪」を主張する、というところまでは、“世紀の冤罪事件”となってしまった足利事件等と同じ展開。
だが、今回は「法廷での謝罪を見送った」という点で異なっており、各メディアの批判もその点に集中している。

検察サイドにしてみれば、取調べそのものの問題性が指摘された足利事件とは異なり、本件は、決して精度が高いとはいえなかった起訴当時の鑑定技術ゆえ、証拠評価を“見誤った”、という事案で*1、しかも、検察官が無理をして有罪を掴み取った、というよりは、元々弱い証拠構造であるにもかかわらず、裁判所(控訴審)がそれをアシストした結果有罪になった、という方が良いようなものだから*2、法廷での謝罪までは必要ない*3、という判断に至ったことは決して不思議なことではない、というべきだろう。

ただ、再審開始決定に異議申し立てまでして抵抗したあげく、「今さら昔の証拠を調べてみたら、これまでの立証ストーリーと矛盾する結果が出てきた」というのは、負け方としてはいかにも格好が悪過ぎる。

しかも、巷で言われているように、これらの証拠が、10年以上前の公判で、弁護人から再三開示を求められながらも長年開示してこなかったものだったのだとすれば、今後の実務へのハレーションも大きいだろう*4

以前にも触れたことがあるかもしれないが、刑事訴訟の建前からすれば、「無罪」は「完全に潔白」を意味するものではなく、「合理的な疑い」をさしはさむ余地が認められれば、有罪の認定は覆すことができる。

そして、検察側が、検察官立証に合理的な疑いをさしはさむ余地を認めた第一審段階で引き下がっていれば、あるいは、再審開始決定が出た時点で、あっさりと弁護人側に道を譲っていれば、ここまで決定的な「潔白の証」を引き出すこともなかったはずなのであるが・・・*5

検察側が過去の捜査や公判での立証活動の無謬性に固執したゆえに、逆に弁護人、被告人側の勝利を決定づける鑑定結果を引き出した、というこの皮肉な結末。

いろいろと考えさせられるところは多い*6

*1:強引な見立てが招いた限りなく「故意」に近い誤りだろうが、純粋なミスだろうが、無実の被告人が不利益を受けたことに変わりはないのだが、いかなる場合でも結果責任を負って謝罪せよ、というのがいかに酷なことかは、我が身に置き換えて考えれば、誰しもが気付くことだろう。

*2:以前ご紹介した佐野眞一氏の“傍聴記”による限り、一審判決で否定された検察官の主張を糊塗するような大胆な立証は、控訴審段階においても行われることはなかったように思われる。

*3:法廷外では東京高裁の次席検事が「長期間拘束したこと」について、ちゃんと謝罪している。

*4:最近では、公判前の段階で、かなり幅広く検察官の手持ち証拠が開示されることも多いようだが、このままいけば、弁護人の請求の有無にかかわらず、検察官の全ての手持ち証拠に弁護人がアクセスできるようにせよ、という話になっても不思議ではない。

*5:もちろん、被害女性の体内に残された体液のDNA型と、爪の付着物のDNA型が一致し、かつそれが被告人以外の第三者のものだったからといって、被告人が完全に「シロ」ということにはならないのだが、この時点でもう一般的な「合理的な疑い」をはるかに超える疑いが生じているのは間違いない。

*6:刑事手続の在り方を考える上で参考になるのはもちろんだが、そこを離れた日常的な仕事上の調査だの交渉といった類の事柄にも共通するところが多い問題だと、自分は思っている。

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