“実名報道”をめぐる議論に思うこと。

とうとう10人目の日本人犠牲者が出てしまったアルジェリア人質事件。
事件の背景等について、まだはっきりしないところは残っているものの、プラント建設という仕事に誇りを持って世界中を飛び回っていた犠牲者たちの無念を思うと、何とも言えない気持ちになる。

だが、そんな悲しみの余韻に浸る間もなく、今、我が国で盛り上がっているのが「実名報道」をめぐる議論だ。

この事件の一報が報じられ、やがて悲痛な報が流れるようになっても、一向に犠牲になられた方々のお名前が公表されない、ということについては、自分も違和感はあった。

政府のコメントは、

「(日揮が)ご家族の皆さんは動揺していて、そこだけは勘弁してほしいと言っている。今の時点で発表するつもりはない」(日本経済新聞2013年1月25日付け朝刊・第38面))

と、もっぱら日揮側の要請によるものである、というものだったが、これが通常の事故、事件であれば、たとえ犠牲者となった社員が“純然たる被害者”であったとしても、当局から一方的に氏名等が公表されるのが常で、会社はそこから波及する様々な対応に追われる・・・というのが現実だったはず。

遠い異国の地の出来事で、日本の当局自体が正確な情報を十分に把握しきれていなかった(ように見える)という特殊事情はあったものの、その意味では「異例」の対応だったと言えるだろう。


今回は結局、某大手新聞社が“実名”をすっぱ抜いて報道し、それに対して一部の被害者側から抗議の声が上がったことで、「被害者の実名を公表することの是非」、さらに、「メディアの事件・事故被害者への取材の在り方」へと一気に議論が燃え上がっていくことになった。

(正式な経緯は良く分からないのだが)確かに、情報提供者に対する取材と、そこから得た情報を公表する経緯には、いろいろと議論を呼ぶところもあったようだ。

ただ、個人的には、

「実名を公表すること」

と、

「実名が公表されることに付随して生じるメディアの取材、報道の在り方」

の問題は切り分けて考えられるべきだと思っている。


世間的にはどんなに無名の人物だったとしても、その人には、「名前」とともに築かれてきた人生がある。
特に、今回のようなケースでは、犠牲となった社員の方々が「会社の中でどういう地位にあり、これまでどういう功績を残してきたのか」、そして、「なぜ、彼らがアルジェリアの地にいたのか」ということを社会全体で共有して、しっかり語り継いでいかない限り、異国の地で流れた血も報われないだろう*1

その意味で、「氏名、役職」の一切が公表されないまま、という状況は、犠牲者の名誉のためにも、決して好ましいことではなかったと思う*2

もちろん、事件、事故の性質によっては、「実名」を報じられること自体が被害者や、その家族の名誉を傷つけることもあるのは確かだ。

でも、本件がそういう事件ではないことは、事件発生直後から分かっていたことだったようにも思うわけで*3、事件解決後もなお、「一切公表しない」という対応が取り続けられたことについては、議論の余地があるように思われる*4


一方、「実名公表」に付随する取材、報道の在り方については、自分も、ネット上で展開されている一連の批判に賛同するところが多い。

結局、犠牲者の実名がメディアで流れ始めてからの各社の報道と言えば、「悲嘆にくれる家族の悲しむ姿」とか、「ご遺体と対面した家族の悲痛な表情」といったものばかりで、周辺取材も、取材しやすい実家の家族や古い知り合い等から得た、と思われる、「どこで生まれ育って、どんな人となりで・・・」といった、紋切り型のものばかり。

悲しむ遺族の姿を映すことによって、“共感力”の強い多くの読者が一緒に「非道な犯罪行為」への憎しみを駆り立てることを期待する、というのは、メディアの手法の一つとしてはあり得ると思うし、それ自体を全否定するつもりはないが、ありとあらゆるテレビ、新聞メディアが同じことをする必要はあるまい・・・*5

報道する側としては、「被害の実態を検証するための事実報道」だ、と主張するのだろうけど、悲嘆にくれる家族の側としては、各メディアが用意している“紋切り”記事に流し込むだけの、同じような質問を繰り返し投げつけられる、という迷惑なことになるわけで、事件の本質とは必ずしも関係しないこの種の取材を延々と行うことに、公益的な意義があるとは自分には到底思えない。

取材のタイミングにしても、これまで悲痛な不安感の中で時を過ごし、これからも葬儀の手配等、いくら時間があっても足りないくらいのあわただしさの中を過ごさなければならない遺族に対して、このタイミングで行わないといけないのか・・・という素朴な疑問がある。

“スープの冷めないうち”に、関連報道を次々と紙面化して耳目を引きたい・・・というのが取材サイドの思惑なのかもしれないけれど、そんなのは知ったこっちゃないわけで、じっくり周辺取材を行って、ご遺族や会社関係者が落ち着いた頃に、“証言”を集めて完成度の高い記事を書く、というアプローチの会社が一社くらいあっても良かったのかなぁ、と思うところ。


既に「メディアスクラム」を憂慮する声が強いことから、今後は、各メディア側でも何らかの“自制”をせざるを得なくなると思われるが、あまりにも目に余る取材、報道を繰り返していると、結果的に、「実名公表そのものを予防的に禁止する」という流れに向かっていかないとも限らないわけで、各メディアが自分で自分の首を絞めないようにするために、現状の問題点について、真摯に反省し、やり方をちょっとでもいいから改める、といった姿勢が今まさに求められている・・・。

SNS上で繰り広げられる、純粋な“正義感”から出てきているメディア批判が、勢いを増していくさまを見るたびに、そう思えてならない。

*1:1月25日付けの日経紙朝刊に掲載されている田島泰彦・上智大教授の「被害者遺族の思いを受け止める配慮は欠かせないが、重大なテロ事件の被害者らがどんな人でどんな仕事をしていたのかなどを客観的な事実として記録することは大切」というコメントも、大意これに近いことを仰っているのではないかと思われる。

*2:もちろん、日揮側も、行方不明者や犠牲者の家族が一番大変な時期に、取材攻勢に晒されて更なる心労を負わせてしまうことを危惧していただけで(この点については後述)、どこかでタイミングを見て、公表するつもりはあったのだろうと思うけど。

*3:過去の人質事件では、「人質」になった日本人がバッシングに晒された例もあったから、日揮側でもその辺を危惧したのかもしれないが、今回は幸いにもそういう流れにはならなかったように思う。イラクとは異なり、本件は元々国内で話題になっていなかった北アフリカの政情に絡む事件だったから、これまでネット住民の関心も薄かっただけで、今後風向きが変わる可能性が全くないとはいえないのだが・・・。

*4:余談ではあるが、自分と血のつながった近しい親族は、昔、不慮の事故で命を落とした。だが、翌日新聞に掲載されたのは、たった数行のベタ記事だけ(しかもローカル面)。しかも、某大手紙などは、被害者の職業と年齢を報じただけで、氏名すら掲載しなかった。ちょうどその頃、大々的に報じられていた日航機の事故の報道とのギャップが大きすぎて、葬儀に集まった親族たちが皆口をそろえて、「これじゃあ、○○ちゃんも報われないよねぇ・・・」と言っていたことが、今でも自分の心の奥には残っているし、故人の名前を報じるかどうか、というのは、それだけセンシティブな問題だ、ということなんだと思う。公表された場合のデメリットについて考慮が必要なのは当然のことだが、「家族にストレスを与えない」という目的達成のために、“より制限的でない”手段がなかったかどうか、は、後日振り返って検討されるべきではなかろうか。

*5:おそらく日揮側からの情報が十分に取れていない状況だと思われるだけに、やむを得ない面はあるのだろうが、周辺取材にしても、「日揮アルジェリアで行っていたプラント建設プロジェクトがいかなる意義を持つもので、その中で犠牲者たちがどのような役割を果たしていたのか、ということについても、もう少し光が当てられて然るべきだろう・・・と自分は思っている。

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