今、ここにある現実。

時間が経つのは残酷なほど早い。

「明日」という日が来るのだろうか・・・と思うくらい沈鬱な空気が支配していた2011年3月11日の夜は、カレンダー上はすっかり「過去」のこととなり、テレビから流れてくるのは、専ら“あの時、私は・・・”的な回顧録ばかり。

自分の場合、何だかんだと、いわゆる「被災地」に足を運ぶ機会が今でも多いし、瓦礫が片づけられて以降、ほぼ手つかずのまま放置され続けている彼の地の有様を見てしまうと、“震災の記憶”などというタイトルで当時を振り返ることにどうしても違和感を抱いてしまうのだが、同時に、東京で暮らしている限り、2年前のあの時を意識する機会などもうほとんどなくなっている・・・という空気も、当然日々感じているところではある。

それに、時間というのは、残酷であると同時に、どんなに辛い記憶でも、いつの間にか打消し、忘れさせてくれるありがたい存在でもあるわけで、(誤解を恐れずに言えば)「何にもなくなった」姿を年に数度しか見ない(それゆえ、見た時の衝撃が未だに生々しく残る)我々よりもむしろ、瓦礫が片づけられた後のかつての市街地の姿を毎日見続けている地元の方々のほうが、先に“日常”を取り戻しかけているのではないか・・・という気もしてならない。

津波で甚大な被害を受けた地域にしても、原発事故の影響で生気を失ってしまった地域にしても、そこに立ち入ろうとする“余所者”たる我々が常に緊張感を抱いている一方で、すれ違う人々は、思いのほか自然体だ。

学校帰りの児童、生徒たちが醸し出す光景は、どこにでもある平凡なそれ、と何ら変わらないし、街角の定食屋のおばちゃんも、パン屋のおばちゃんも、どこにでもある商店街のほのぼのとした風景を創り出している*1

思えば、東京中が悲観主義にあふれ、頭の中だけで組み立てた「嘆き悲しむ東北の人々の姿」に勝手な共感を寄せていた、2011年3月から4月前半にかけての時期ですら、いざ「被災地」の近くまで行ってみたら、思いのほか明るく照らされたアーケード街の灯りの下、平年以上に多くのお客さまでにぎわいを見せていた、という姿は存在した*2

日常を大きく激変させるような事態に見舞われても、それをいつまでも“非日常”にとどめておくことなく、無意識のうちに“日常”に組み込んでしまう・・・というのは、人間の生きる知恵の一つだし、今回の大震災のようなケースでも、それは決して例外ではなかった、ということなのかもしれない。

もちろん、いかに日々、“日常”を生きていても、身近なところで大事な人、ものを失ってしまった痛みは、それぞれの人の心の中で簡単に消えることなく残り続けるだろうし、たった2年でそれが消えるなんてことは考え難いから、あの悲劇を「過去」の出来事として伝えようとする報道姿勢に対する疑問は残るのだけれど・・・。


ちょうど1年前のエントリー*3にも書いた通り、自分は、メディアのバイアスを通さずに、自分の目で現地の姿に触れ、人に接することが、今の複雑な状況を理解し、被災地に何が必要か、ということを感じるための、最善の方策だと思っている。

時の経過とともに、直接的な被害を受けた人も、そうでない人も、「3・11」への思いがまちまちとなり、どこを見回してもイマイチ噛み合わない議論が散見されるようになった・・・そんな時だからこそ、大仰ではない形で、被災地のありのままの姿に触れることが大事なのではないか、と、心から思うところである。

*1:地域によっては、普通の店舗で営業をやっている店がほとんどなくて、プレハブの一角でかつての商売を細々とやっている、というところも多いのであるが、落ち着いて眺めれば、そこで繰り広げられる風景も、ごくごく自然で、近所の商店街の風景と何ら変わらないことに気付く。

*2:新幹線が復旧する前の仙台の駅前などは、まさにそんな感じだった。東京のネオン街がにわか節電ブームで“灯火管制”を敷かれて静まり返る中、開いている居酒屋はどこも、地元の人たちと全国から復旧作業に駆け付けた人々の熱気にあふれていて、まるでオアシスに辿り着いたような気分になったものだ。

*3:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20120311/1332258534

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