そしてまたやって来たこの日。

あの日から、とうとう干支が一回りしてしまった。

「12年」と言えば、人生の中でも一つの節目になる期間。

あの頃地元の学校に通っていた子供たちは、例外なく都会へ、あるいは社会へと飛び出していく。働き盛りだった人々は「引退」の時を迎え、津波禍を生き延びた人々にも天の運命が忍び寄る。そして、様々な式典に一区切りつけようとする力学が働くタイミングでもある。

だから・・・なのか、今年の報道にはこれまで以上に「語り継げ」のトーンが強く滲み出ていた気がする。

目の前で津波にさらわれた子供を助けられなかった人、必死で手を引っ張り合って高台に走り九死に一生を得た人。

様々な運命に翻弄されながら何とか前に進んできて、でも振り返ると、その原点にあったはずのものが多くの人々の記憶から消え去りつつあるのではないか・・・そんな危機感が様々なところから伝わってきた。

かくいう自分も、環境の変化にここ数年の新型コロナ禍が重なって、もう長らく三陸の沿岸には足を運べていない。

かかわった時間の長さと濃さが、辛うじて自分の記憶の中に「3・11」直後の光景をとどめているが、既にどの被災地も大きく街の姿を変えてしまっている今、その記憶が失われることはあっても、強化されることはおそらくない。

今はまだ、年に一度の回顧記事を眺めながら、断片的な記憶を蘇らせることができるのだけれど、いずれ一年、また一年経つたびに、そういう機会も格段に減っていくはず。

これまで何度も書いてきたが、あの日から2010年代の終わりまで、自分を突き動かしていた原動力になっていたのは、間違いなくあの後に目に焼き付けた光景と、「復興」に向けた使命感だった。「3・11」がなければ、自分の企業人としてのキャリアが一つのところで20年以上も続くことは決してなかったはずだ。

時間の経過が、人の苦しみを和らげることもある。

瓦礫の山がそこにあったことなど想像もつかないくらい美しく整えられた光景が、再興に向けた意欲を増す効果があることだって否定はしない。

ただ、日本中のどこであれ、同じような悲劇がもう二度と起きてほしくない、と思うからこそ、大事なことはずっと忘れてはいけない、と自分は思っているし、様々な政策転換が歴史上最大級の災厄を亡きものにするようなことがあってはならない、とも思う*1


そんなことを言いながら、ポカポカ陽気で弛緩して競馬中継の合間に黙祷をしてお茶を濁す程度の自分のような人間にたいそうな話ができる資格があるとは思わないのだけれど、12年後の「3・11」の夜、日本代表のユニフォームを身にまとった佐々木朗希投手が、自らの強烈な存在感とともに、「運命の日」の記憶も多くの人々に呼び起こしてくれたことには、素直に最大級の敬意と感謝をささげたいと思っている。

*1:改めて言うまでもないことだが、「3・11」がもたらしたのは地震禍、津波禍だけではない。

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