“ヨソモノ”の心意気。

平成25年度前半の日本にちょっとしたブームを巻き起こした“北三陸”の物語も、間もなく終わりの時を迎えようとしている。

月曜日からの15分×6で、様々なサイドストーリーがエンディングのクライマックスに向かって一気に動き出していく様子を見て、幸福感を抱きつつも、一抹の寂しさを憶えたのは自分だけではあるまい。

ところで、自分がこの「あまちゃん」というドラマの中でこの1ヶ月近く注目しているのは、やはり“震災”とその“直後”、そしてさらに“その後”がどう描かれているか、ということである。

“震災直後”に抱いた自分の感覚が、ドラマの中で見事に表現されている、と感じたことについては、先日のエントリー*1で書いたとおりだが、“その後”の様子についても何となく伝わってきたところはあった。

自分の経験に照らして言えば、“人は元気”だった、というのは、どんな被災地にも共通していたのだけれど、その日その日を乗り切るために“元気”を使えばよかった時期を過ぎ、“復興”というテーマに向き合わないといけなくなった時にエネルギーをどう使うか、ということについては、それぞれの地域や、地域の中で生きている人それぞれで、かなりの違いがあったような気がする。

良い意味でも悪い意味でも、変わってしまった環境に“適応”してしまった人もいれば、行き場を失ったエネルギーを行政や社会との闘いに向けた人もいた。そして、希少な存在ながら、エネルギーを最大限“復興”に向けようとしている人も、もちろんいた。

どれが良くて、どれが悪い、という話ではない。
ただ、未曽有の災害が去り、“平時”に近づいていけばいくほど、それぞれの差異が顕著になり、様々な“美談”に包まれて一体化していたコミュニティが分裂の危機に瀕している、という話は、自分もあちこちで聞いたし、それは今に至るまで、見える見えないにかかわらず続いている話なのではないか、と思っている。

ドラマの中でも、その辺はきちんと描かれていて、どちらかと言えば惰性的に立ち止まりそうになっていたように見えた地元の人々に、主人公が一石を投じ、理解者である祖母や東京からUターンしてきた仲間たちがそれを盛り立て、それに引っ張られるように、皆、次第に未来に目を向け始める・・・

この点については、主人公が震災の前も後もローカルな惰性に陥ることなく周囲の空気を変えるような行動ができるのは、彼女が東京から高2の夏にやってきた“ヨソモノ”だからだ、という意地悪な見方もできなくはないわけで、震災の前後を通じてずっと地元に残っていた彼女の親友とのあまりに対照的な姿が、それを象徴していたともいえる*2

極端に足を引っ張るような人物が現れることもなく、なんだかんだと、主人公の目指す方向に(いや、それ以上に)コトがトントンと進んでいくのは、ドラマならではの話で、「そんなにうまくいくかよ」とシニカルな目で眺めていた視聴者も、(特に実際に復興に関わっている人々の中には)多かったのかもしれない。

ただ、たかがドラマ、されどドラマ。

たとえ“おとぎ話”の世界の話でも、異質な世界に飛び込んできた“ヨソモノ”が、その心意気で、何かを変えようとして、そして、それで何かが変わっていく、という姿を、1カ月かけてじっくりと描いたことが、今、悪戦苦闘しながら同じような立場で地域を引っ張っている人々に、少なからず良い影響を与えるのではないか・・・と自分は信じたい。

彼の地に完全に身を投じることができず、中途半端な形でしかかかわることができて来なかった“ヨソモノ”としては、複雑な思いもあるのだけれど、それでも頑張る主人公と、同じ方向に向かいつつある周囲の登場人物に、素直に感情移入して応援したくなる・・・

そんな稀有なドラマだけに、。

*1:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20130907/1378584063

*2:この対比に限らず、このドラマの都会で育った者と田舎で育った者、地元に残ったものとそうでない者、震災を間近で経験した者とそうでない者、といったところの心理描写は、実に的確で、それがドラマの深みを一段と増している。

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