“被災地”の心。

東日本大震災のまさにその瞬間、から月曜日が始まった、ということで、ほぼ目が離せなかった今週の「あまちゃん」。

津波の映像も、震災直後のニュース映像も一切挟まず、まさに現場に遭遇した人々の、そして、東京でそれをテレビやネットで追いかけていた人々の表情とリアクション、そして、そこに付け加えられたほんのわずかなセリフと最低限のナレーションだけで、あの日の雰囲気を見事に描き出した演出は見事の一言だったのだが、ドラマの中でより強烈に描かれていたのは、地震が去った翌日以降の“東京の人々”の姿だった。

物流の混乱、節電、そして、度を越した“自粛”ムード。
「寄せては返す波」ゆえに、映画はお蔵入りし、名曲「潮騒のメモリー」もテレビでは歌えない。
被災者、被災者、と同情を強いるようなニュースが垂れ流される割に、有名人が現地に支援に行くと「売名行為」と謗られる。

そんな状況を、コミカルに、だが痛烈な皮肉を込めつつ描かれていたのが、非常に印象的だった。

“被災地”という言葉にも、降って湧いたような“絆”とか“頑張ろう”とか、って言葉にも、おそらく脚本家はあまり好感を持っていなかったのだろうなぁ・・・というのが伝わってくるシーンも多かった。

2年という時の経過があったゆえのこと、とはいえ、いかがわしい集団心理の前に忍従を強いられた人々の思いが存分にこめられていた何日か分の放送回を見て、そして、実際の距離以上に遠く感じられるようになってしまった東京で、一方的な情報の渦に巻き込まれながら途方に暮れ、かつて暮らした地に駆け付けたい、という思いに駆られる主人公の姿を見て、「あの時」のことを思い出した方も多かったのではないだろうか。

さらに言えば、土曜日、変わり果てた姿になった「海女カフェ」で、アキが言ったセリフには、震災直後に様々な形で“被災地”に入って、現地の空気に接した人々の戸惑いと希望が、全て集約されていたような気がしてならない。

正直、わがんねがった。おらに出来る事、やるべき事って何だべって、ずっと考えでだ。
東京でテレビ見でだら、あまりに問題が山積みで、何万人のデモ行進どか、何百万トンのガレキどか、正直、おら一人じゃ、どうにもなんねえって気になっちまう。
頑張ろうどか、一つになろうどか言われても、息苦しいばっかりで、ピンとこねえ。
んでも、帰ってきたら、いろいろはっきりした。
とりあえず、人は元気だ。みんな笑ってる。それはいい事だ。食べる物も、まあ、ある。北鉄も、走ってる。それもいい事。んだ! 東京さいだら、いい事が耳に入ってこねえんだ。つれえ事ばっかりで・・・。
http://ameblo.jp/pikataa3/entry-11607913433.htmlより)

自分は、最低限のインフラが復旧して間もないころから、何度となく“被災地”に足を運んでいる。
三陸の北側にこそ行けなかったものの、宮城の沿岸部にも、福島の浜通りにも、(取り上げられる機会は少なかったけど)茨城の海沿いにも行った。

“支援”とかそんな大げさな話ではなく、仕事上、現地の方々と話をして、ニーズを汲み取らないといけない、という必要に迫られていたがゆえに足を運ばざるをえなかった、というのが実態だったわけだが、そういう立場で接したこともあってか、東京にずっと残っている人間が聞いたら驚くくらい、接する人たちはみな普通で、活力があって、相対的に被害が少なかったところではむしろ震災前よりも賑わいを感じるくらいの熱気があったことを、今でも鮮明に覚えている。

もちろん、その中には、自宅が流され、あるいは倒壊して、ひとたび家に戻れば不自由な生活を強いられている人も多かったし、自治体も地元企業も、公式には「支援」を要請している状況ではあったのだけれど、「人は元気」だった、というのは、ドラマの中のフィクション、というわけでは決してなかった・・・。


都会の人間が、“被災地”というスティグマを押し付けようとすることへのアンチテーゼから始まったこの9月のシリーズが、残り数週間でどう展開していくのかは分からないけれど、ちょっとした懐かしさと、今に至るまでこの国が抱えている“ギャップ”の問題に思いを馳せつつ、もうしばらくクドカンワールドを楽しんでみることにしたい。

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