「ジョブ型」は魔法の杖ではない、ということを改めて。

ここに来てまさかの「緊急事態宣言再び」のような状況になっていて、年も変わり、せっかく、さぁ新しい気持ちで仕切り直してこれから!と思っていた方々の中には、げんなりしている方も多いのではなかろうか。

だから言わんこっちゃない・・・などとまでいうつもりはないのだが、昨年終盤の官邸の動きの悪さを見ていると、これもさもありなん、という感じで、年末の間に「大人数宴会の禁止」とか「帰省自粛」をもう少し強いトーンで呼びかけておけば良かったものを、いろんなところに忖度して煮え切らないスタンスのままここまで引っ張ってきてしまったものだから、とうとう「緊急事態宣言」という話になり、一律の夜間外出自粛要請→外出そのものの自粛要請という流れの中で、どう見たって感染拡大とは直接関係ない個人客向けの飲食店とか小売店までが再び犠牲になりそうな気配である。

で、新型コロナそのものの話は、また日を改めて書くとして、休み明け以降、お行儀のよい会社では再び強化されそうなのが「テレワーク」

そしてそれに伴って再び乱れ飛びそうなのが、「ジョブ型雇用」というマジックワードである。

「テレワーク」と「ジョブ型雇用」を結び付けることがチャンチャラおかしい、ということは以前ここでも書いたとおりなのだが*1、誤解をまき散らしている最大の元凶、日経紙の紙面での公式な訂正はまだ見ていないので、新型コロナの話題が沸騰すればするほど、また筆が滑って書いてしまう記者が出てきても不思議ではない。

新年の紙面では、さすがにコロナと切り離してこの話を論じよう、という”良識”が多少は働いたのか、また違う切り口で「ジョブ型」が取り上げられていて、何と今度は「仕事のやりがい」とセットで「ジョブ型」をもてはやす、というまた何ともシュールな書きぶりになっているのだが*2、これまた非常に違和感がある。

そもそも、この特集記事の最後に書かれている「ジョブ型雇用」の説明が、

「日本では勤続年数に応じて昇給する「年功型」が多数派だが、成果に基づき評価されるジョブ型では年功概念は否定される。同期入社でも給与格差が拡大する可能性が高い。ジョブ型が一般的な欧米では企業内で特定のジョブがなくなれば、雇用もなくなるケースが多い。成果と評価の結びつきを維持しつつ雇用を保障する「日本版ジョブ型」の在り方が模索されている。」(日本経済新聞2021年1月1日付朝刊・第13面、強調筆者)

となっている時点で専門家の視点から見れば完全にアウトなわけで、昨年、同じ新聞の「経済教室」面で本田由紀教授が、

「要点を復習すると、ジョブ型雇用は(1)成果主義ではなく(2)個々の社員の職務能力評価はせず(3)解雇がしやすくなるわけではなく(4)賃金が明確に下がるわけではない――ということだ。この点に関しては、紙面でも「労働時間ではなく成果で評価する。職務遂行能力が足りないと判断されれば欧米では解雇もあり得る」などと間違った説明がされており、反省を求めたい。」(日本経済新聞2020年12月7日付朝刊・第11面、強調筆者)

とわざわざ書かれているのに、それを読んでいないのか、はたまた意図的に無視しているのか・・・

ということで、雇用制度を真面目に議論しようと考える者にとっては、実に頭の痛い状況がまた訪れそうなのではあるが、昨年末に公刊されたジュリストの特集では、そんな状況を憂いた専門家たちが、実に鮮やかに問題点を指摘し、論点をクリアにしてくださっている。

ジュリスト 2021年 01 月号 [雑誌]

ジュリスト 2021年 01 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/12/25
  • メディア: 雑誌

「新たな働き方と法の役割」という特集の、「雇用システムの変化と法政策の課題」というテーマの座談会*3

ここでは、主に労働経済学者の鶴光太郎教授と濱口桂一郎労働政策研究・研修機構研究所長の間で、「ジョブ型雇用」をめぐる様々な誤解を解きほぐす試みが行われているのだが、特に「ジョブ型」「メンバーシップ型」の名付け親、とされる濱口氏の発言には、爽快感を抱くほどの強烈さがある。

「コロナ危機でのテレワークということで、ジョブ型という言葉が氾濫しています。しかしほとんど一知半解で、ジョブ型という言葉を振り回しているだけ。いや一知半解どころか、どうもイロハのイも分かっていないような議論が横行しているように思います。」
「ジョブ型とかメンバーシップ型というのは、現実に存在する雇用システムを分類するための価値中立的な学術的概念ですが、マスコミでこういう議論が流行るのは、ジョブ型を、何か新商品の売り込みネタとでも心得ているからではないか。」
(以上、濱口発言17頁、強調筆者、以下同じ。)

濱口氏に比べれば、多少言い方がマイルドなれど、続く鶴教授の言葉も、厳しさという点では変わらない。

(これまでの日本企業では)「評価をまともにしていなかった。それから、部下とのコミュニケーションが明確な形で行われなかった。お互いに同じ職場にいたから何か安心だ。机の前で部下が一生懸命パソコンに向かってやっていたら、あいつはやっているなと。それは、長時間労働をしていたらこいつは頑張っているということと、ほとんど変わらない世界があったわけです。いい加減なコミュニケーション、いい加減な評価をやっていたところが、コロナ危機で、もう俺たちはどうしたらいいのだろうとみんな卒倒してしまったわけです。しかし、本質が見えていないということで、いくらジョブ型にすがったとしても解決できる話ではないということは、先ほど濱口さんがひとつひとつご説明していただいたところに全部表れているような感じがするのです。」(鶴発言24頁)

「メンバーシップ型」と言われる今の伝統的日本企業のやり方のどこが問題で、本来想定されている「ジョブ型」とはどういう違いがあって、いきなり「ジョブ型」にしようとするとどういう問題が起きるのか、ということは、この座談会の中で非常に分かりやすく説明されているので、自分がここで中途半端にまとめるよりも、このジュリストを入手して読んでいただくことをお薦めしたいと思っているが*4、もし、この機に乗じて「ジョブ型」施策を打ってHR部門の存在感をアピールしたい、とか思っている輩がいるのだとしたら、

「結局、今流行の『ジョブ型』論は、ジョブ型とはそもそもいかなるものであるかという認識の大部分が欠落し、メンバーシップ型の『常識』の大部分を無意識に前提としたまま、ジョブ型のごく一部の特徴、ごく一部のジョブ型の特徴、場合によっては何らジョブ型とは関係ないものを適当につまみ食いして、もっともらしくでっち上げたインチキ商品を、新商品だと言って売り込んでいるようなものではないか。本気で『ジョブ型』にするつもりであれば、今までのメンバーシップ型で享受していた人事労務管理の『自由』を一体どこまで捨てる覚悟があるのかを問い直すべきだろうと思います。」(濱口発言28頁)

という言葉をしっかり噛みしめてから、その先に進んでいただきたいと思っている。

巷で良くささやかれる

「人事屋が掲げる『人事制度改革』は、大抵の場合、人事屋だけに都合の良い『改悪』である。」

という言葉は、体質の古い日本企業の多くで当てはまることだと思われるし、

「人事制度を本当に改革したいなら、まず初めに人事部門を解体せよ!」

というのは、自分が尊敬するある経営者が長年唱え、最後に行きついた場所で実践したことでもある。

そして、自分の部門の運用を「ジョブ型でやります」と言われてしまった部門長の取るべき対応としては、(たとえ目下の足元の人員がどんなに寂しい状況だったとしても)あらゆる採用権限と異動権限を人事部門から奪回し、人事査定に関しても自分たちの賞与査定や昇進判断の絶対性を認めさせることで(要は、安易に賃金原資や「ポストの数」云々を理由に、根拠不明瞭な「相対評価」をさせない、ということに尽きる)、それができないまま「ジョブ型」という大義名分だけ受け入れるようなことになれば、その部門は「優先的なリストラ部署」に陥りかねない、ということも、肝に銘じておく必要があると思っている。

なお、前記座談会の中で、濱口氏が、

産業革命以来の近代社会における企業組織の基本構造はジョブ型です。日本も民法や基本的な労働法制は、全部ジョブ型でできています。」(濱口発言17頁)

ということにも、我々はもっと耳を傾ける必要がある気がする。

濱口氏は、続けて「現実の日本社会はそうなっていない。」とも述べられているのだが*5、自分の知る限り、「典型的なメンバーシップ型」が適用されているのは日系大企業のいわゆる「総合職」社員だけで、そういう人々が総労働人口の中で占める割合は、決して大きなものではない。

こと「現場」の労働者に関して言えば、入社した直後からかなりの確率でリジッドな「ジョブ」が割り当てられ、それを10年、20年と続けていく、というケースが稀ではないし、人材リソースをもっぱら経験者採用で回している新興企業や、異動させようにもさせる先がない中小規模の会社でも、事実上「ジョブ」は固定化されていることがほとんどである。

要は、「日本の雇用社会はメンバーシップ型で成り立っています」といくら言ったところで、それは、これまで社会の”上澄み”とみられていたごく限られた人々の中でしか通用しない理屈に過ぎないのであり、ましてや、これまで盤石だった会社が、何かの拍子に坂道を転げ落ちて退場を迫られる、ということもまま起きるようになった現代では、”上澄み”でも何でもない単に”古い”会社にいるがゆえに共同体幻想の下で「メンバーシップ型」を強いられる、ということにもなりかねないわけで、遅かれ早かれそのようなやり方は立ち行かなくなるだろうな、ということも容易に想像が付くところである。

自分自身は、表にはっきりとは出さずとも、節目節目の駆け引きでは「キャリア権」を行使しながら自分の職務経歴を作ってきたようなところがあるから「ジョブ型」志向の考え方は当然理解はするのだが、一方で、典型的「メンバーシップ型」の波の中で偶然接したことが、会社を離れた後の仕事の中でも強烈なアドバンテージとして生きていたりもするから、一律に「ジョブ型」の枠の中で仕事をすることが絶対的に自分のためになる、とは言いにくい*6

ただ、いつ転落するか分からない会社に自分の人生を預けることのリスクや、「メンバーシップ」の名の元にポストの都合で何も考えずに繰り返される人事異動の悪弊をなくす、という観点からは、どんな会社、どんなバックグラウンドの人間でも、20代後半から30代後半くらいまでは明確に割り当てられたジョブに従って経験を積ませる方が良いに決まっているので、あとはその世代に差し掛かるまでの期間をちょっとフレキシブルにして*7、さらに30代後半くらいからは職位を上げる代わりにジョブ定義をアバウトにする*8という形で、今の「日本的メンバーシップ型」に近い形に寄せていくのが良いのだろうな、という気がしている。

いずれにしても、会社によっては、上も下も発想のコペルニクス的大転換を強いられるのは間違いない話なわけで、「テレワークで評価ができないから・・・」なんて次元の低い動機で安易に呟くようなことではないぞ、と思うところだが、嘘か真か「管理職からジョブ型導入」のような話をメディアの記事で見かけるとまた頭がクラクラと・・・。

これが一過性のブームで終わるのか、それとも経済界が本気で取り組む方向で動いていくのかは分からないが、ことこのテーマに関して言えば、「ビジネス系メディア」の記事も「人事専門家」のご託宣も全くあてにならないだけに、自分で調べて考えて、自分の所属する組織がやろうとしていることが理にかなっているかどうかを見定める、その心構えに尽きるのではないかな、と思う次第である。

*1:それでも「テレワーク」は確実に定着していく。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~脚注2あたりをご参照ください。

*2:日本経済新聞2021年1月1日付朝刊・第13面。

*3:森戸英幸[司会]=濱口桂一郎=田中恭代=鶴光太郎「[座談会]雇用システムの変化と法政策の課題-「ジョブ型雇用社会」の到来?」ジュリスト1553号16頁(2021年)

*4:というか、曲がりなりにも「人事労務」とか「HR」の担当者です、と名乗るのであれば、今号の特集記事を読まずして何を語れるのか!ということはここで強く申し上げたい。ジュリストを定期購読している法務部門の担当者からまだ情報が共有されていないのであれば、直ちに自腹切って買え!の一言に尽きる。

*5:濱口氏は、その現実を前提に判例法理や、労働契約法などの一部実定法が「メンバーシップ型」を支えるものとして構築された、という指摘もされている。

*6:もし、世の中の雇用形態が全て「ジョブ型」となった場合、一定の水準以上のポテンシャルと意欲を持っている人が一つの会社の中だけでずっと仕事をやり続けるのはかなり難しいことになるのではないかと思っていて(そもそも人間が同じことを続けてできるのはせいぜい10年が限界だろう、と思っていて、そこから先は意識的に仕事を変えるか職場を変えるかしないと、多くの人は精神的に持たないはず)、当然ながら複数の会社を渡り歩くことにならざるを得なくなると思われるが、「動く」ことに伴うリスクは当然あるわけだから、それが本当に当事者にとって幸福なことなのかどうかは分からんなぁ・・・とい思うところである。

*7:この先大学教育がどんなに進化を遂げたとしても、机上の学問の世界と現実とのギャップを最初の就職の時点から埋められる、と考えるのは現実的ではないし、大学をそこまで「実務」寄りにしたのでは研究機関としての存在意義も損なわれてしまう。かといって、ノースキルの生徒、学生を一定のボリュームで採用する、という制度を残しておかないと、欧米のような若年高失業率社会になってしまうことは避けられない、ということで、現実的な解としては、「フレキシブルな20代の時間」は残す方向に行く方が賢明だろう、と。

*8:これはジョブ型の典型とされる欧米企業でも多かれ少なかれ同じようなことはやっているはずである。

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