「民事訴訟」の持つ意味と、これからのこと。

刑事訴訟法の第1条には、

「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」

と書かれている。

一方、民事訴訟法に書かれている「裁判所及び当事者の責務」(第2条)には、

「裁判所は、民事訴訟が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない。」

と書かれているだけ。

ここに「真相解明」という言葉は一切出てきません。それが何を意味しているか分かりますか・・・? という趣旨の問いかけは、自分が経験した1年半の修習の間に聞いた言葉の中でも一番印象に残っている部類のものだったりする。

もうかなり昔の話なので、その言葉を聞いたのが、民裁の講義だったのか、民弁の講義だったのか、それとも裁判所の実務修習の時の話だったのか、記憶は定かではないのだが、自分はそれまでの実務での経験から、発言者が言わんとしていたことは自ずから察しが付いたし、「訴訟」というものに対する市井の人々の”期待”の温度感と、法が定める仕組みとしてのそれとのギャップを表現するのに、これだけわかりやすい話はないな・・・と思ったものだった。

当事者は事実を主張する。証拠調べの手続きもある。
だがそれはあくまで原告が立てた請求とその当否を決するためにのみ行われるもので、裁判上の争訟として扱える事件や請求の類型に一定の枠がはめられている以上、世の中で争われている事実、当事者が知りたいと思っている全ての事実について裁判所が認定してくれるわけではない。

さらに言えば、弁論主義の原則の下、訴訟上の主張立証は訴訟当事者にのみ委ねられ、裁判所の職権探知主義的な介入が否定される日本の民事訴訟では、仮に立証責任を負っている側の当事者であっても、「事実を明らかにするくらいなら敗訴した方がまし」と思えば、必要な立証を行わずに裁判を終わらせることもできる*1

「事実」そのものではなく、法の解釈と適用に係る判断に紛争の本質があるような場合には、いずれの当事者も惜しみなく法廷に「事実」を出してくるから、そのやり取りを通じて事件の全容が浮かび上がることもあるが*2、「何があったか」という事実だけで請求の当否まで決まってしまうような事件であればそうもいかない。

もちろん、相手方当事者が資料をきちんと精査せずに証拠提出した結果、思わぬ「真実」が明らかになることもあるし、証言台に立った証人がついうっかり口を滑らせて「真実」が明らかになることもある。

だが、それは単なる偶然の産物に過ぎない*3のであって、多くの場合は、法廷に出てくる書面も証拠も関係者も大事なことは何も語らず、「真相」はかえって藪の中・・・ということの方が多いのではないか、と自分は思っている*4

要するに、今の日本の「民事訴訟」にとって「真相解明」というのはあくまで副次的な産物に過ぎないのであって、かつ、民事訴訟」というのは、真相を解明するための手段としてはあまりに迂遠で、労力がかかりすぎるものなのだ。


今、まさに、ここ数年ずっと報じられてきた事件に関連した国賠訴訟で、しかも提訴から1年9カ月経ったタイミングで、被告・国の「請求認諾」という判断が報じられ、メディアを中心にあちこちで批判の火の手が上がっている。

しかし、これだけ強い政治色を帯びてしまっている事件で、仮に証拠調べを続けて、関係者を次々と法廷に立たせたとしても、そこから何らかの「真実」が明らかになる、という奇跡が訪れる、なんてことは自分は俄かには信じがたい。

仮に、通常の民事訴訟で、時間をかけて行った文書提出命令の手続きを経て出てきた証拠にも決定的な材料はなく*5、あとはどう転ぶか分からない証人尋問勝負、という状況で裁判所が和解勧試をしてくるようなことがあれば、ひとまずそれに乗っかってみる、という代理人は多いだろう。

和解の条件がはしにも棒にもかからないようなものであれば、蹴飛ばして証拠調べに戻るが、ある程度整った条件で解決が図れるなら、証拠調べはあえて行わずに紛争を終結させる方が、原告の利益にもかなうことは明らかなのだから。

ましてや、本件では、国が全面的に責任を認めた上で、高額の損害賠償請求を全額認容する、という完全降伏なのであって、本来、紛争の解決としてこれ以上の結果はない*6

それでもなお、この決着をもってしても、紛争当事者に無念かつ悲痛な思いを抱かせてしまっているのだとしたら、それは「民事訴訟」という制度に対して社会が抱く幻影が引き起こした帰結にほかならず、そして、その過程で、理論上も実務上も”真相解明”を目的化することはできない、ということが分かっていながら”幻影”を否定しようとしなかった専門家にもその責任の一端はある、というほかない*7

大事な人を突然失った方が、少しでも真実に近づきたい、という思いは痛いほどわかる。だが、一方で、今の日本の法制度の下ではそういった思いを全て叶えることはできない、という現実もある。

もし、今回の「認諾」の報を聞いて、本気で憤っているのであれば、そのエネルギーは同じような無念な思いを二度とさせないために制度をどう変えるか*8、ということに向けられるべきだろう。

それが、行政訴訟ディスカバリー制度を入れて、かつ認諾不可にする、といった訴訟制度のドラスチックな改革によるものなのか、それとも、一定の疑義が生じた場合の「第三者による調査委員会の設置強制」といった行政改革によるものなのかは分からないが、そこまでしない限りは、結局、何年かに一度同じようなことが起きて、SNSでブー垂れて終わり、ということになってしまうのではなかろうか・・・。


よく「秘密を墓場まで持っていく」なんてことが言われるが、今も昔もそれを徹底できるような人は、そう多くはない。

裁判になっている間は「絶対に口外するな」と言われてそれを頑なに守っていた人でも、ひとたび決着が付けばチャックが緩み、あちこちで噂は流れだす*9

本件くらい世間の注目度が高まった案件であれば、週刊誌が「激白」記事をすっぱ抜いたり、挙句の果てに関係者が「暴露本」を出す、なんて流れになることも十分予想される。

だから、そんなにドラスティックにあれこれ考えなくても、いずれ真相が浮かび上がってくるのを待ちましょう・・・というのが善良な市民の賢い選択なのかもしれないが、本件に限らず、誰もがいつ何時、行政やその他組織の不可解な何か、に巻き込まれる可能性はある、ということを考えると、ちょっとでも何かが変わっていけばよいな、というのが、今の個人的な思いである。

*1:もっといえば、現実の訴訟では、「真相」を知りたい側の原告側に立証責任の多くが課されるため、「事実は明らかにならず、かつ敗訴」というパターンも決して少なくない。

*2:事故等で法人の管理監督過失の有無が争点になっているような場合は、概してその傾向はある。あと法の適用以前に事実に対する専門的見地からの評価で勝敗が決まるような場合も、証拠自体は比較的早い段階で出てくる傾向はある。

*3:もちろん、代理人の尋問技術が優れていたがゆえに、「うっかり」や「たまりかねて真実を暴露」という結果を引き出せることも皆無ではないだろうが、民事、刑事問わず、それがきれいに決まるケースなどそうあるものではない。

*4:それでも判決まで行けば、勝ち負けは付くし、原告が勝てば「これで真相が明らかになった!」という話になるのだろうが、よく読むと依然としてもやもやが残る・・・という事件のなんと多いことか。

*5:当然ながら実際に本件で問題になっていたファイルの中身を見たわけではないのだが、報道されているところによると、改ざんの指示等に関する決定的な材料は出てこなかったようである。

*6:本件で、国側の姿勢をとやかく言う向きも多いのだが、国側としては自分たちの証拠をしっかり固めて争えば、真相を押し隠したまま審理を引き延ばし、仮に負けたとしても認容額を減額させる、ということだってできたはずだから(訟務局が「そりゃあ無理だよ」と匙を投げた可能性もあるが)、それをせず請求を潔く認容した、というのは、パーフェクトな対応とは言わないまでも、そこまでボロクソに言われることではないだろう、と。

*7:かくいう筆者自身も、こういう極端な結果になったからこそ、こういうことを書いているが、提訴から「認諾」という結果になるまでの過程では、野次馬的に「これで真相が多少は明らかになればよいな」という思いを微かに抱いていたことは否定できず、その点は大いに反省している。

*8:先にも述べた通り、こういった話は、「請求の認諾」といった極端な場面だけでなく、被告側が証拠を出さずに「負けに行く」パターンや、証拠が出ないまま立証不十分で原告敗訴、というケースでも出てくるものである。

*9:本件に関しては既にいろいろ流れているし、その中には巷ではほとんど報道されていないこともあったりするのだが・・・。

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