過去の逮捕歴に関するツイッター投稿の削除をめぐり、最高裁が高裁判決を覆して原告(上告人)の削除請求を認めた*1、ということで大きな話題になっている。
元々法務界隈でも多くの方が関心を持たれている話題、ということで、既に様々な方がコメントされているし、これからもより詳細な分析・解説が出てくると思うので、今回第二小法廷が示した多数意見についてここで多くを語ることはしない。
Googleが最三小決平成29年1月31日*2で逮捕歴情報の削除請求を退ける(ある意味画期的な)決定を得たこともあり、この種の話になると、どうしても真正面から「情報流通の基盤」とか「表現の自由」といった大上段の議論が始まりがちなのだが、元々削除請求が認められるかどうか、というのは極めて個別的な事情に左右される話である上に、「検索プラットフォーム」であるGoogle(事業者は表示されるリンク先のコンテンツそれ自体の表現には原則として関与できない)と「ユーザーの投稿を掲載するプラットフォーム」であるTwitter(自己のプラットフォーム上での表現を事業者が物理的にコントロールすることは可能)とでは、本来の立ち位置も、事業者側が削除措置を講じることの容易性(とそれによる影響)も大きく異なるはずで、少なくとも本件事案の概要を見る限り、最高裁にまで持ち込んで争われるべき事案だったのだろうか・・・?*3という思いは残った。
そんな中、個人的に本判決に(隠れた)意義を見出すとしたらここかな、と思ったのが、草野耕一裁判官による補足意見である。
特に、「実名報道の効用」を批判的視点から論じた以下のくだり(判決PDF5~7頁)は様々な示唆に満ちている。
「本件各ツイートを一般の閲覧に供し続ける理由程度のものに減少最初に考えるべきことは、本件各ツイートは社会的出来事に対する報道に関するものであると評価し得るところ、報道は一回の伝達行為によってその目的を全うし得るものではなく、報道内容に対して継続的なアクセスを可能とすることによってその価値を高め得るという点であろう(以下、この付加価値を「報道の保全価値」という。)。しかしながら、犯罪者が政治家等の公的立場にある者である場合は格別(本件はそのような事案ではない。)、犯罪者の氏名等は、原則として、犯罪事件の社会的意義に影響を与える情報ではない。よって、犯罪者の特定を可能とするこのような情報を、保全されるべき報道内容から排除しても報道の保全価値が損なわれることはほとんどないといってよいであろう。したがって、犯罪者が公的立場にあるわけではない場合において、なお、犯罪者を特定できる情報を含む犯罪報道(以下、これを「実名報道」という。)を継続することに社会的意義があるとすれば、それは、実名報道をすること自体によって報道の保全価値とは異なる独自の効用が生み出される場合があるからであると考えるほかはない。そこで、以下、考え得る実名報道の効用を列挙し、その価値を個別に検討する。」
「ア 実名報道がもたらす第一の効用は、実名報道の制裁としての働きの中に求めることができる。実名報道に、一般予防、特別予防及び応報感情の充足という制裁に固有の効用があることは否定し難い事実であろう(この効用をもたらす実名報道の機能を、以下、「実名報道の制裁的機能」という。)。しかしながら、犯罪に対する制裁は国家が独占的に行うというのが我が国憲法秩序の下での基本原則であるから、実名報道の制裁的機能が生み出す効用を是認するとしても、その行使はあくまで司法権の発動によってなされる法律上の制裁に対して付加的な限度においてのみ許容されるべきものであろう。したがって、本事件のように、刑の執行が完了し、刑の言渡しの効力もなくなっている状況下において、実名報道の制裁的機能がもたらす効用をプライバシー侵害の可否をはかるうえでの比較衡量の対象となる社会的利益として評価する余地は全くないか、あるとしても僅少である。」
「イ 実名報道がもたらす第二の効用は、犯罪者の実名を公表することによって、当該犯罪者が他者に対して更なる害悪を及ぼす可能性を減少させ得る点に求めることができる(この効用をもたらす実名報道の機能を、以下、「実名報道の社会防衛機能」という。)。しかしながら、この効用は個人のプライバシーに属する事実をみだりに公表されない利益が法的保護の対象となるとする価値判断と原則的に相容れない側面を有している。なぜならば、人が社会の中で有効に自己実現を図っていくためには自己に関する情報の対外的流出をコントロールし得ることが不可欠であり、この点こそがプライバシーが保護されるべき利益であることの中核的理由の一つと考えられるからである。したがって、実名報道の社会防衛機能がもたらす効用をプライバシー侵害の可否をはかるうえでの比較衡量の対象となる社会的利益として評価し得ることがあるとしても、それは、再犯可能性を危惧すべき具体的理由がある場合や凶悪事件によって被害を受けた者(又はその遺族)のトラウマが未だ癒されていない場合、あるいは、犯罪者が公職に就く現実的可能性がある場合など、しかるべき事情が認められる場合に限られると解するのが相当であるところ、本事件にはそのような事情は見出し難い。」
「ウ 第三に、実名報道がなされることにより犯罪者やその家族が受けるであろう精神的ないしは経済的苦しみを想像することに快楽を見出す人の存在を指摘せねばならない。人間には他人の不幸に嗜虐的快楽を覚える心性があることは不幸な事実であり(わが国には、古来「隣りの不幸は蜜の味」と嘯くことを許容するサブカルチャーが存在していると説く社会科学者もいる。)、実名報道がインターネット上で拡散しやすいとすれば、その背景にはこのような人間の心性が少なからぬ役割を果たしているように思われる(この心性ないしはそれがもたらす快楽のことを社会科学の用語を使って、以下、「負の外的選好」といい、負の外的選好をもたらす実名報道の機能を、以下、「実名報道の外的選好機能」という。)。しかしながら、負の外的選好が、豊かで公正で寛容な社会の形成を妨げるものであることは明白であり、そうである以上、実名報道がもたらす負の外的選好をもってプライバシー侵害の可否をはかるうえでの比較衡量の対象となる社会的利益と考えることはできない(なお、実名報道の外的選好機能は国民の応報感情を充足させる限度において一定の社会的意義を有しているといえなくもないが、この点については、実名報道の制裁機能の項において既に斟酌されている。)。」
すっかりお馴染みとなった独特の「定義」を駆使しながら、論点をクリアに整理していく、という草野裁判官ならではのご意見であり、また、一種のオチともいえる「第三」の指摘(負の外的選好)の話などは、裁判所がざっくりとした評価の中で明確に整理されることなく判断基底に取り込まれてしまうことが多い類の話を明確に切り出して断罪した、という点で、実に痛快な印象も受ける*4。
「補足」にしても「反対」にしても、草野裁判官のご意見は、時に法律審である最高裁の裁判官としての意見を超えてしまうところもあって、出されるたびに様々な議論を引き起こしているところではあるのだが*5、こと今回の判決での補足意見に関して言えば、多数意見の根拠の補足、という意味でも、「実名報道」全般にかかる意見としてもポジティブに受け止められる部分は多々あるような気もしている。
もちろん、今回の補足意見も、あてはめの場面では事例ごとに結論が変わってくることは避けられないし、どんなに勇気のある代理人でも、今回補足意見に記された一般論の部分を、他の「実名報道」に関する事件で引用するのはちょっと躊躇してしまうところがあるのだけれど、それでもなお、最高裁から新たな一石が投じられた、ということで、この先議論が深まることを期待して、今後の帰趨を見守っていきたい、と思うところである。