長崎の司法修習生が巻き起こした一つの“事件”。
「インターネット上の自身のブログに、検察の実務修習で体験した容疑者の取り調べや司法解剖の内容などについて書き込みを続けていたことが19日、分かった。同地裁は「修習生としてふさわしくない行為があった」として、裁判所法の守秘義務違反に当たる可能性もあるとみて事実関係の確認を急いでいる。」(日本経済新聞2008年6月19日付朝刊・第22面)
この後に続く記事だけ見ると、“ミーハーな愚か者が迂闊にも・・・”というコメントがぴったり来るような一連の報道。
最初、某著名ブログ経由でこの記事を読んだ時は、自分もうっかり騙されるところだった・・・。
だが、嫌疑をかけられた修習生の名誉のために言うならば、このレベルの書き込みに対して「守秘義務違反」で制裁を加えることが許容されてしまうのだとすれば、この国の司法はちょっと危うい(少々大げさかもしれないが)。
本人のブログは既に閉鎖に追い込まれてしまったようであるが、報道されている部分も含め、最近の書き込みはキャッシュで拾うことができる。
例えば、例の取調べのくだりはこんな感じ。
今日,はじめて取調べやりました。
相手は80歳のばあちゃん。
最初はいろいろ話を聞いてたけど,
途中から説教しまくり。おばあちゃん泣きまくり。
おばあちゃん,涙は出てなかったけど。
けど,なんで20代の若造が80歳のばあちゃんを説教してるのか。
それに対してなんで80歳のばあちゃんが泣いて謝ってるのか。
なんとなく,権力というか,自分の力じゃない力を背後に感じた。
また、「ジャンケン」のくだりばかりがピックアップされている、長崎市長銃殺事件公判の記事も、本当は、
「被告人を死刑に処する」
文字では何度も読んだことがあるし,主文が後回しにされ,さらに量刑の理由の中でも「極刑はやむを得ない」などと言っていたので,その結論は頭の中ではわかっていたけれど,法廷に響き渡ったその言葉に鳥肌が立った。
長崎市長銃殺事件の判決公判に立ち会いました。
テレビに映るとか言っていたけど,午前中のテレビ撮影が入っている時間帯はジャンケンに負けて修習生席に座れませんでした…。
けれど,午後は法廷にいたので,主文の瞬間に立ち会いました。
この事件,自分は公判を見たわけでもないし,記録もほとんど読んでいないので,その判決が妥当かどうかなど,語れるわけもないので語りません。
ただ,この事件がどうとかはさておき,やっぱり死刑って違うなと思った。
この被告がやったことは許されないし,選挙期間中に候補者を射殺することは,まさに民主主義に対するテロ行為。それはそのとおり。
だけど,本当にこの被告人を殺していいのか。
死んじゃったら全て終わりだよと。
偶然にも今日,某アナウンサーの自殺の報道があったけれど,
自ら死を選ぶ人もいれば,殺される人もいる。そして裁判によって殺される人がまた1人。
自分の頭では整理できないな。
判決を全て言い渡した後の裁判官室は異様な静寂に包まれてました。
なんとも言葉では言い表しようのない空気。
なにはともあれ,死刑判決に立ち会うという貴重な経験をしました。
(以上、強調筆者)
と、ピュアな(だが決して不自然ではない)感想が綴られている。
たわいもない日常記に、時折り混じる現在の司法制度や法曹への純朴な疑問や批判。
検事も一緒に飲むといい人が多い。
人間的におもしろそうな人もたくさんいる。
けれど,みんな自分の仕事に誇りを持ちすぎているというか,
もう少し他の視点から考えてもいいのではないかと感じること多々。
とか、
検察修習もあと少し。
修習としては楽しいけれど,職業にはできないとの結論に至る。
検事の立場に対しての疑問もあるし,なんだか仕事の幅が狭いとも感じた。
検事が言ってたけれど,社会のゴミ掃除ばっかりやってると視野が狭くなると。
とか、
今日ビデオリンクの証人尋問を傍聴した。
それで思ったこと。
やっぱりビデオリンク+遮へいの合わせ技は違憲だ。
別室にいる証人に修習生の姿が見えると心理的に影響があるとかいう理由で
傍聴席から傍聴した。つまり被告人と全く同じ感覚。
仲間はずれにされている感じがした。
あんなもの公開でもないし,被告人が反対尋問できるわけがない。
刑事裁判って,当然のことだが,被告人が主役のはずなのに,
なぜ,その主役の被告人には何も見せずに,他の脇役である
検事とか弁護士とか裁判官だけ画面を見てるのか。
違和感ありまくり。
刑事裁判って,被告人に刑罰を科す手続であって,真実を明らかにする場ではない。
敢えて強く言うならば,刑事裁判なんかで真実なんてわかるわきゃない。
過去にどのようなことがあったかについて,第三者つまり他人である
検事だとか弁護士だとか裁判官がいくらあーだこーだ言っても,
100%真実にたどり着けるなんてことがあるわけがない。
訴訟で明らかになる真実なんて,擬制された真実であり,
それで真実にたどり着けたと思っているならば,そんなのは賢いとされている人たちの思い上がりでしかない。
つまり,何が言いたいかというと,真実を明らかにすることを目指すことと,
被告人にどのような刑罰を科すのが相当かを考えることとは時に矛盾する。
そのような時に,何を優先して考えるべきかという時に,
あまりにも真実を明らかにすることを優先しすぎなのではないかと。
裁判官も修習生もそう考えている人が多いような気がしてならない。
それが行き過ぎると,本来主役であるはずの被告人が,訴訟の中で仲間はずれにされるということになるのではないか。
ビデオリンク+遮へいという荒技を見ながらそんなことを考えた。
とかいった書き込みに嫌悪感を覚える人間がいても、決して不思議ではない。
さらに言えば、年齢の割には、表現が稚拙なんじゃないのか、とか、そもそも完全に本人が特定されるような状況でここまでセンシティブな内容に踏み込むのは、“社会人として”あまりに無防備すぎるのではないか*1、という批判も当然成り立ちうるだろう。
「人権の府」といえど、組織としてみたときには、所詮一つの“会社”であることに変わりはないのであって、お偉いを怒らせるような言動をすれば、当然しっぺ返しは食らうし、人事担当者の逆鱗に触れれば、本人の能力如何にかかわらず、冷や飯を食わされることは間違いない。
「社員(修習生)としてふさわしくない」といわれたときに、
「「ふさわしくない」という客観的な基準は何ぞや」
と問うことに大して意味はないのであって、人事権者が“けしからん”と思えば、それで不利益を受けるのが世の常である(それが法的に正しい処分が否かは別として)。
だが、そこで「守秘義務違反」という“法的制裁”までちらつかせるのが、果たして妥当なやり方だと言えるのだろうか?
「それでも立場を考えれば・・・」
等々、賛否両論あるだろうから、後は読者の皆様の感想に委ねることとしたいが、少なくとも自分は、この“事件”に、冒頭に挙げたような単純なコメントを付すのは適切だとは思わないし、一部の書き込みだけを取り上げて報じるメディア(恐らく「大本営発表」の垂れ流しかと思われる)の姿勢が適切だとも思えないのである*2。