34年越しの残滓が消えた日。

それは思いがけないサプライズだった。

音楽教室のレッスンでの楽曲演奏が、日本音楽著作権協会JASRAC)による著作権使用料の徴収対象になるかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁第1小法廷(深山卓也裁判長)は24日、JASRAC側の上告を棄却した教師の演奏に対する著作権使用料の徴収を認める一方、生徒の演奏は徴収対象にならないとした二審・知財高裁判決が確定した。」(日本経済新聞2022年10月25日付朝刊・第43面、強調筆者)

9月に弁論まで開かれた上告審。

一審では原告だった音楽教室側の上告受理申立てが早々に退けられた、という情報は事前に耳にしていたし、最高裁が、JASRAC側が争っていた「生徒の演奏の演奏主体」の論点だけを拾い、しかも、(通常は高裁判決を逆転させる場合に行われることが多い)弁論までわざわざ開いた、ということになれば、「音楽教室側の全面敗訴」という結果を予測するのも当然のこと。

ましてや、事件が係属していたのは、悪い意味で”サプライズ”に乏しい第一小法廷である。

だから、高名な著作権法の先生方の批判もむなしく、再び、利用主体認定にかかる過去の最高裁判決(クラブキャッツアイ事件最高裁判決、ロクラクⅡ事件最高裁判決)が呼び起こされ、「生徒の演奏であっても演奏主体は音楽教室だ」という結論で締めくくられることになるのだろう、と諦念していたのは、決して自分だけではなかったと思う。

だが、そこで最高裁が放ったのは、驚くほどシンプルながら事実上歴史を塗り替えるようなインパクトを持つ、そんな矢だった。

最一小判令和4年10月24日(令和3(受)1112)*1

公表された判決PDFは、わずか2ページ。

そして、歴史を塗り替えたのは、その中の、たった一つの段落だった。

演奏の形態による音楽著作物の利用主体の判断に当たっては、演奏の目的及び態様、演奏への関与の内容及び程度等の諸般の事情を考慮するのが相当である。被上告人らの運営する音楽教室のレッスンにおける生徒の演奏は、教師から演奏技術等の教授を受けてこれを習得し、その向上を図ることを目的として行われるのであって、課題曲を演奏するのは、そのための手段にすぎない。そして、生徒の演奏は、教師の行為を要することなく生徒の行為のみにより成り立つものであり、上記の目的との関係では、生徒の演奏こそが重要な意味を持つのであって、教師による伴奏や各種録音物の再生が行われたとしても、これらは、生徒の演奏を補助するものにとどまる。また、教師は、課題曲を選定し、生徒に対してその演奏につき指示・指導をするが、これらは、生徒が上記の目的を達成することができるように助力するものにすぎず、生徒は、飽くまで任意かつ自主的に演奏するのであって、演奏することを強制されるものではない。なお、被上告人らは生徒から受講料の支払を受けているが、受講料は、演奏技術等の教授を受けることの対価であり、課題曲を演奏すること自体の対価ということはできない。 これらの事情を総合考慮すると、レッスンにおける生徒の演奏に関し、被上告人らが本件管理著作物の利用主体であるということはできない。 」(PDF2頁、強調筆者、以下同じ)

最初に来るのは、「規範を書け」とやかましい一昔前の司法試験予備校の採点者が見たら大目玉をくらわすんじゃないか、と心配したくなるような薄さの判断枠組み。それに淡々としたあてはめが続き、最後に出てくるマジックワード、「総合考慮」。

でも、これを最高裁の裁判官が書けば、立派な「事例判決」となる。

果敢にも債務不存在確認を求めて東京地裁に提訴し、5年越しで争ってきた原告に対して、これを「勝利」と言ってしまうのは何となく申し訳ない気分になるが、それでも「生徒の演奏の演奏主体は生徒」という、ごくごく自然な解釈が最高裁でも是認された意義は決して小さくないはずだ*2

さらに、最高裁がこの判断を下す過程で、34年前のクラブキャッツアイ事件判決はもちろん、ロクラクⅡ事件の判決すら引用しなかった、ということは、これから他のジャンルで「著作物の利用主体性」が争われた場合の様相をがらりと変える可能性を秘めている

思えば、録画ネット、まねきTV、選撮見録、そしてロクラクⅡ、と事件が花盛りだった時代から今日に至るまで、我々は著作物の利用主体性の判断に際して、「分かりやすい規範」を求めすぎていたのかもしれない

どこかで線引きしてほしい、という思いは分かる。裁判上の規範から適法なビジネススキームを考えたい、というニーズも未だに残ってはいるだろう。

だが、裁判所の本来の仕事は、目の前に置かれているあれこれをいかに片付けるか、ということに尽きるわけで、抽象的な「規範」を立てて(あるいは過去の「規範」を追求して)論じたところで、本件の解決としてはそこまでの意味はない。

そう考えると、まさに目の前の問題を片づけることに徹した今回の最高裁の姿勢は十分評価されるべきものではないか、という気がしている。

おそらくこれから調査官解説が公式に出るまでの間、今回の短い判旨をめぐって様々な解釈が飛び交うことになりそうだし、それまでの間、「利用主体性」をめぐって一戦交えようとしている当事者にとっても手探りの時期が続くことになりそうだけど、それも過渡期の宿命。

そして、この先「利用主体」の認定をめぐってどれだけ激しく争われることになったとしても、「昭和」の時代の判決が安易に持ち出されることはないと信じて「総合考慮」の土俵の上で戦えることの意味は、実に大きいのではないかと思う。

最後に、これまで”勝ち戦”しかしてこなかった管理団体に自ら戦を仕掛けることでこの国の著作権法の歴史に大きな足跡を残した一審原告に改めて敬意を表しつつ、これまでの歩みとして以下のリンクをご紹介して、本エントリーを締めることとしたい。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com
k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

*1:第一小法廷・深山卓也裁判長、https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/473/091473_hanrei.pdf

*2:おそらくは、今後、JASRACが徴収しようとする使用料の料率の妥当性や個々の音楽教室にそれを当てはめたときの金額の妥当性について、さらに激しいネゴが行われることが予想されるが、その際には、常に今回の最高裁判決が引き合いにだされることだろう。

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