一瞬仰天したけれど・・・。

まだメディアにも「ドイツ戦勝利」の余韻が残っていた24日の日経夕刊の1面に↓のような記事が躍ってひっくり返りそうになったのは、決して自分だけではなかったはずだ。

金融庁証券取引所が3カ月ごとに上場企業に提出を求める「四半期決算短信」について、将来的に任意開示に切り替える検討を始める。重要事項の発生時にその都度公表する「適時開示制度」と一本化し、制度としての決算短信は年1回の提出に減る。企業の負担を軽減する一方、開示情報の充実を促す。四半期開示の見直しには慎重論もあり、実現するかは不透明だ。」(日本経済新聞2022年11月24日付夕刊・第1面、強調筆者、以下同じ)

四半期開示に関する企業側の負担の重さを背景に、四半期報告書と四半期決算短信の「一本化」が決まったのはつい最近のこと*1

確かに四半期ベースで作成するにはあの報告書は項目的にも手続的にも重すぎたし、その割には投資する側から見て有益な情報は少ない*2、ということで、「短信」への一本化は十分理解できるところではあったのだが、その一方で四半期ベースでの業績の「開示」が引き続き行われる、というのは当然の前提になっている、と自分は思っていた。

それが、舌の根も乾かぬうちに、また新しい方針に塗り替えられるとは・・・

件の記事は、読者にそのような誤解を与えるのに十分なインパクトのあるものだったように思う。

だが、本当にそうだったのか?

11月25日に行われた金融審議会「ディスクロージャーワーキング・グループ」のウェブサイトに「事務局説明資料」として掲載された資料*3に目を通すとかなり印象が変わる。

確かに、資料の3ページには、

「特に、企業環境の変化や情報技術の進展等を背景に企業が都度発信する情報の投資判断における重要性が高まっていることを踏まえると、将来的な方向性としては、期中においては、発生した又は決定された重要な事実について、信頼性を確保しつつ、適時に開示することに重点を置いた制度へと見直していくことが考えられるか」

という記述があり、「将来的な方向性」として決算短信が「年一回」になっている図も出てくるのだが、その前段階として「四半期決算短信」が義務付けられる段階というのも明確に存在しているし、続く5ページの論点整理を見ても、当面は四半期決算短信の一律義務付けを行った上で、「積極的な適時開示により期中において充実した情報が適時に提供される環境が確立できれば」さらに方向性を変えていくこともあり得る、という程度の話だと理解するほかない。

結果的に、会議翌日の日経朝刊では、記事のトーンもだいぶ収まり*4

金融庁幹部も「適時開示を充実させることは相当ハードルが高いことだ」と認める。第2段階の改革には実現の時期が示されておらず、検討を続けるとしながら問題を先送りし続けることも理屈の上では可能だ。今回の案は、改革を求める岸田政権の顔を立てつつ、情報開示の質と量は確保し続けようという金融庁の窮余の一策とのややうがった見方もある。」(日本経済新聞2022年11月26日付朝刊・第5面)

と”うがった見方”まで登場するに至ったので、やれやれ、というところではあるのだが・・・。


以前のエントリーでも書いたとおり、経済活動を行っている企業にとって「四半期」というのはそれなりに長いスパンである。

したがって、落ち着いて考えれば、「年に4回しか」業績開示をしない、というのが全ての企業にとって合理的とは言い難いところはあるし、金融庁の事務局資料に示されたような「適時開示が徹底される世界」になれば、そのダイジェストに過ぎない「短信」は自ずから消えていく、という発想もあり得るだろうとは思う。

ただ、ここは、そういう世界を夢見る前に、日本の上場企業になぜ本当の意味での「適時開示」が浸透しないのか、ということを今一度考えてみる必要があるのではなかろうか?

決して日本企業のIR担当者が怠慢、というわけではない。日本企業の経営管理部門が世の中で起きている様々な事象のインパクトを真面目に分析していない、というわけでもない。

むしろ、細かすぎるくらいの分析や、それに基づく”見せる”資料の作り込み、という点では、世界的に見ても突出してハードワークをこなしているのが、この国の各部門の担当者たちだと自分は思っている。

にもかかわらず、新型コロナ禍や、ウクライナ戦争のような”大事変”が起きても市場に向けた効果的な情報発信ができていない理由があるとすれば、それは多くの企業に、

「公表した”見立て”が外れることへの恐怖感」

が染みついているからに他ならないような気がする。

不確実な事象に遭遇し、そこから将来の予測を導き出そうとすれば、当然、そのアウトプットが”正解”になる確率も低くなる。

例えば、今の不安定な為替状況、不安定な物価状況の下で「半年後」の自社の業績がどうなっているかを予測することは、カタールのW杯の優勝チームを予測するよりもはるかに難しいわけで、様々な変数がある中で、想定していた前提が少し動いただけではじき出される数字も当然変わってくる。

だから、その時々の”見立て”が合理的な推論に基づいて行われているものである限り、最終的な結果との乖離は本来責められるべきことではないはずなのだが、メディアも投資家もそこを”見立ての甘さ”として叩くのがこの日本社会・・・だとすれば、多くの企業で業績の見立てに直結するような効果的な「開示」に腰が引けてしまうのも、ある意味当然のことのような気がしてならない。

今起きていることを果敢に開示することがまず大事で、その事実を元にいかなる投資判断をするかは投資する者が自ら判断すべきもの、会社が示した”見立て”が結果的に実績と乖離したとしても、そのことだけをもって責めるべきではない、というマインドがこの先世の中に深く浸透していけば話は別。

だが、そんな時代がいつ訪れるかもわからない以上、適時開示には慎重なスタンスで臨み、その代わりに四半期ごとに客観的な業績数値を淡々と公表していく方が、この国の人々の気質には間違いなく合っていると思うし、本当に「新しい方向性」に向けてことを進めようとするのであれば、それを阻む風土自体を国の旗振りで積極的に変えていかないと、企業の当事者たちが困惑するだけ・・・。

自分が生きている間に「第2段階」のフェーズを目撃することになるのかどうか、個人的にはかなり怪しいと思ってはいるが、本気で変えようとするのであれば、まずここからだろう、ということを強調して、この話題をひとまずクローズさせておくことにしたい。

*1:「四半期報告書」廃止の意味。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~参照。

*2:定性的な記述などは多くの会社でただの”コピペ”になってしまっているし・・・。

*3:https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/disclose_wg/siryou/20221125/01.pdf

*4:「社説」欄には「四半期開示の任意化には断固反対する」という見出しの春闘の檄文ばりの記事が載ってあらら・・・という感じではあったが。

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