超越した一頭の前に、法則は通用しない。

時の流れは早く、あっという間にクラシックシーズンが到来。
そして、第1弾はいつものように、牝馬最初の関門、桜花賞

着順を正確に当てるのは決して簡単ではないが、上位に来る馬かどうかの「法則」は決まっている、というのが、長らくこのレースの特徴だった。
前走の着順にかかわらず、チューリップ賞組だけで1,2,3位を独占したことも過去10年の間に2度はあったし、チューリップ賞組に他のトライアル路線で強い勝ち方をした馬を絡ませておけば大体いい予想の筋になる、逆に言えば、それ以外のローテーションの馬はどんなに人気になっていても切って良し、というのが、このレースの必勝法則だった。

だから、今年、藤沢和雄厩舎&ルメール騎手騎乗のグランアレグリアが人気になっているのを見た時も、「前走・朝日杯FS」というローテを見て“しめしめ”という思いしか抱かなかったし、最後は順当ローテでダノンファンタジーが快勝するだろう、と思っていた*1

昨年、アーモンドアイがシンザン記念から直行してあっと言わせたことは、もちろん脳裏には残っている。
でも、同じ変則ローテでも、年明けにシンザン記念クイーンカップを使って間隔をあけて臨むのと、年末に使ってから直行、というのとでは、全然違うだろう、というのが、自分のこれまでの経験則が導いた結論で*2、ましてや牝馬限定の阪神JFではなく朝日杯FSを使い、しかも勝ちきれないまま休養に入った馬が、そこまでの人気を集めるなんて・・・というのが素直な思いだった*3

それが、である。

確固たる逃げ馬不在で、最初の1000m通過時点ではいつになく遅いペースになっていた中で、自らまくってペースを作り出し、直線では後続に影をも踏ませず突き放して2馬身半差の圧勝。決して時計が出やすい馬場ではなかったにもかかわらず、タイムは1分32秒7の桜花賞レコード。

乗り方の巧拙以前に、これは普通の「牝馬」のレベルの馬ではないな、と唸らされるような地力の高さを見せつけられ、何も言えなくなる。
勝たれてもまだ半信半疑だった昨年のアーモンドアイと比べても、衝撃の度合いはより高かったような気がする。

「3歳牝馬」のカテゴリーでこれだけレベルの高い馬が毎年出てくるようになった背景等、より深く掘り下げる余地はあるのかもしれないけれど、とりあえず、今言えることは、どれだけデータを拾って「法則」を考えたところで、傑出した力を持つ一頭の前では無力なんだよな、という当たり前の結論である。

そして、長く競馬を見続け過ぎてしまっているがゆえに(&その過程で何度となく看板倒れに終わった“特別な一頭”も見てきたがゆえに)、突然現れた傑出馬の「超越」度合いに気づくのが年々遅くなってしまっていることに、自戒を込めて、来週からの巻き返しを誓うことにしたい。

*1:当日になってオッズが逆転し順当にダノンファンタジーが1番人気に支持されたのも、皆、似たようなことを考えていたからだろう。

*2:数年前に、レイデオロホープフルSからぶっつけで同じ条件の皐月賞を使って敗れた記憶も生々しかったし。

*3:だから、こういう場合の定番作戦として、同じ藤沢和雄厩舎でも人気薄のシェーングランツの方をむしろ狙おうか、と思ったくらいだった。最終的には追い込み一辺倒の脚質と、今の阪神の馬場との相性の悪さを考慮して外したのだが・・・。

地位を追われた者と、追った者と、その間にある執念と。

ここのところ、やたら報道が目立つようになってきたLIXILグループの経営トップ人事をめぐる問題。
一部の海外機関投資家が声を上げ始めたのをきっかけに、最近では、現会長兼CEOの潮田洋一郎氏と、昨年秋に退任した前CEOの瀬戸欣哉氏とでどちらがCEOにふさわしいか、という話題にも発展していたのだが、遂に片方の当事者が動いた。

LIXILグループの経営トップ人事の問題を巡り、前社長兼最高経営責任者(CEO)で現取締役の瀬戸欣哉氏が5日、都内で記者会見した。6月の定時株主総会で株主として、潮田洋一郎会長兼CEOの退任を求め、瀬戸氏ら8人の取締役候補を独自に提案することを明らかにした。経営陣にいる取締役が株主提案をするのは極めて異例だ。同社の経営の混乱が深まっている。」(日本経済新聞2019年4月6日付朝刊・第2面、強調筆者)

記事の中では瀬戸氏の「プロキシーファイトではなく指名委員会への働きかけをまず優先して行っていく」という趣旨のコメントも掲載されているが、株主としての権利行使の一環で提案を行う以上、もつれた場合は当然委任状争奪戦になる可能性も十分考えられるわけで、ことが穏やかでないことは間違いない。

元々、瀬戸氏は、藤森義明社長兼CEOの後任として鳴り物入りで招聘されたプロ経営者だったから、昨年、期の途中で唐突にCEOが交代し、トステム創業家への大政奉還(?)というような事態になった時から既にざわざわする要素はあったのだが、その時は当時のLIXILの経営状況が今一つ、という背景もあったと説明されていたし、“趣味人”的な横顔とともに紹介された現CEOに対しても、決してマイナス面ばかりが強調されるようなことにはなっていなかった。

それが今や、「健全で有能な取締役会をつくることを目指す」というフレーズの下、現CEOを取締役候補者から外して、前CEOが再び返り咲くかもしれない、という展開・・・*1

自分は、LIXILグループ、というこの複雑そうな企業集団の中に足を踏み入れたことはないし、所詮、飛び交っているのは世間の風評で、新旧CEOのどちらが正義か、なんてことは到底分からないし、この点について軽々に論評することは避けたいと思っている*2

だが、LIXILグループが、本年2月下旬に、燃え上がる火の粉を押さえるために公表した「当社代表執行役の異動における一連の経緯・手続の調査・検証結果について」という報告書*3の中には、以下のようなくだりがある。

「上記電子メールの送信内容に鑑みると、潮田氏が瀬戸氏に対して CEO 等からの辞任を求めるに際して、指名委員会による決定が行われた旨及びその決定を覆すのは困難である旨の説明をしたと考えるのが自然である。」(強調筆者)
「瀬戸氏は、「自分(瀬戸氏)は潮田氏の意見対立といった個人的な事情で会社の経営を投げ出すようなことはせず、自分(瀬戸氏)が辞任を決めたのは、あくまでも潮田氏から、自分(瀬戸氏)に辞任を求めることは指名委員全員の総意であり、機関決定がなされた以上、それを覆すことはできないと言われたためである。」と述べている。また、取締役の中には、「瀬戸氏は、中期計画の途中で、自発的に CEO を退任しようなどと考える人物ではない。」と述べる者もいる。」

https://ssl4.eir-parts.net/doc/5938/announcement2/48660/00.pdf

CEO交代が決まった2018年10月31日の取締役会に先立って行われた10月26日の指名委員会で、あくまで「瀬戸氏が辞任の意向を示すことが条件」とされて後任人事案が承認されていたにもかかわらず、あたかも指名委員会の決定が確定的なものであるかのように説明された、という事実。

結果的には、

「瀬戸氏による CEO 及び代表執行役から辞任する旨の意思表示を無効ならしめるほどの瑕疵がその意思決定過程に存在したとまで認めることは困難」

「本件取締役会決議に際して、出席取締役に対して十分な情報が与えられず、あるいは不正確な情報しか与えられなかったといった事情は認められず、また、出席取締役から質問がなされ、それに対する回答も行われている上、質問を遮って採決を強行したような事情は存在しない。」

と、会社側の手続きの適正さを裏付ける結論を導いている報告書の中ですら、言及されてしまっている上記事実の存在が、一連の動きに向けた瀬戸氏の「執念」の源泉になっていることは間違いないわけで、それが法的に「瑕疵」とまで評価されるかどうかにかかわらず、一度でも煮え湯を飲まされた経験を持つ者としては、やっぱりこういうのはいかんよな・・・と、どうしても思ってしまうのである。

世の中、全てフェアであれ、といったところで、それがただの幻想にすぎない、ということは重々承知しているつもりではあるのだけれど。

*1:しかも、共同提案者として旧INAX創業家出身の取締役、伊奈啓一郎氏が加わっている、ということが話をややこしくしている。

*2:こんなスケールの大きな話ではなくても、組織の中の醜い足の引っ張り合いに心身を擦り減らしていた者としてはなおさら、こういった事柄への言及は慎重でなければならない、と肝に銘じている。

*3:結果的には、これが余計に不信感を増幅されている面もあるのかもしれないが・・・。

何事も「タイミング」は大事。

昨日の一番のニュース、といえばやはりこれ。

東京地検特捜部は4日、オマーンの販売代理店に支出した資金を自らに還流させていたとして、日産自動車元会長、カルロス・ゴーン容疑者(65)を会社法違反(特別背任)容疑で逮捕した。「オマーンルート」の強制捜査着手で、特捜部が描く「日産私物化」の構図が強まった。経営者としての威信にかけて無罪主張する元会長側との攻防が一段と激しさを増す。」(日本経済新聞2019年4月5日付朝刊・第1面)

昨年、カルロス・ゴーン元会長をめぐる一連の騒動が始まった頃から、海外での資金還流の話は公然と報じられていたが、一方で、「立件が難しい」「捜査の限界」といった声もよく耳にしていたところだった。そして、昨年末、「形式犯」の金商法違反から特別背任に踏み込んで再逮捕勾留をした時も、ネタになったのは、反論される余地がありそうな「付け替え」の被疑事実の方で、まだ本丸には少し遠かった。

それが、既に公判準備も始まり、当の被告人は保釈まで勝ち取っている、という段階で、再びの身柄を押さえての捜査着手。

記事の中で、

「確実に立証できるよう慎重に判断した。これなら誰からも文句を言われない内容だ」(上記第3面)

という検察幹部の声が紹介されているように、おそらくこれは、司法共助等も活用した満を持した捜査の結果だろうし、グローバルに行われた経済犯罪*1、という被疑事実の性質を考慮すると、いかに先行する起訴事実に関して保釈され、保釈条件を被告人が遵守しているといっても、証拠隠滅の恐れ等を考慮して逮捕勾留する、という判断になることもわからないではない。

ただ・・・

*1:明確に犯罪成立を推認できる物証があるわけではなく、当事者の証言一つ、それに基づく一つ一つの行為の意味付け一つで犯罪成否の結論は変わりうる。

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あの頃の自分にも、今の自分にも。

新年度が始まったばかり、ということで、新社会人向けの記事を目にする機会も多いのだが、今朝の日経朝刊に載っていた、南場智子ディー・エヌ・エー会長のメッセージには、心に刺さるものがあった。

「新社会人は同期より自分が成長できているかどうかを気にしがちだ。かく言う私も米コンサルティング会社のマッキンゼー・アンド・カンパニーに入社した当初は自分の価値を見いだすのに必死だった。肩に力が入り、仕事が空回りすることが多かった。ただあるプロジェクトで他の人からの評価を気にせずに目の前の業務に没頭したとき、ようやく仕事の楽しさに気づいた。その経験は自分の宝物になった。意識を自分でも他人でもなく仕事そのものに向けることは、当社の行動規範にも掲げている。」
日本経済新聞2019年4月4日付朝刊・第3面)

自分の社会人生活の振り出しは、決してマッキンゼーのような一流の会社組織で始まったものではなかったし、残念ながら「新社会人」の時代に、「没頭」できるような仕事も目の前にはなかった。

ただ停滞した何年かを過ごした後に、後先考えずに目の前にある仕事に取り組み、それまで会社の中で他の誰もやったことのなかったようなところにまで足を踏み入れたことで、20歳代から30歳代にかけての活路を見いだすことができ、今に至るまでのキャリアを築くことができた、というのは間違いなくある。

大きな会社、大きな組織であればあるほど、「定番の出世コース」みたいなものが何となくありがちで、若いうちはそれに乗っかるかどうか、ということがやたら気になったりもするものだけど、そういうものに気を取られて一喜一憂しているうちに、本当の仕事の楽しさとか、やりがいとか、というものを見落としてそのままズルズル歳をとってしまった、という例は山ほどあるわけで、「目の前の仕事だけに意識を向けよ」というのは、まさに金言だと自分は思っている。

そして、歳月を経て、世代を超え、上からも下からも周りからも、「評価」され、それを意識しないと生きていけないような立場になってもなお、初心を貫いた結果、「仕事への意識第一」という自らの正義に殉じたことに、自分は一片の悔いも抱いてはいないのである。

できすぎたストーリー

数日前、トーナメント戦でまだ勝ち上がっている学校の中に「東邦」という名前を目にして以来、もしかしたら・・・という予感はあったのだけれど。

「第91回選抜高校野球大会最終日は3日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場に2万7000人の観衆を集めて決勝が行われ、東邦(愛知)が6-0で習志野(千葉)を破って30年ぶり5度目の優勝を果たした。」(時事通信社2019年4月3日15時25分配信)
東邦、平成最後もV=30年ぶり、最多5度目-選抜高校野球(時事通信) - Yahoo!ニュース

30年ぶり、ということは、前回の優勝は、突然の改元から間もない平成元年。
そして、今回はもちろん「平成最後」。

前年の準優勝で「悲運の2年生エース」といわれていた東邦・山田喜久夫投手と、当時の高校野球界の大スター、元木大介選手らを擁する上宮高校の対決に胸を高鳴らせていた少年は、今、普通に中年を迎えているけど、そんな時の流れを飛び越えて高校野球の歴史に再び名前を刻むのだから、偶然にしてはできすぎている。

決して野球少年でなくても、一試合一試合を食い入るように見ていた30年前とは違って、今は見ても、せいぜい結果のスコアだけ。
優勝校のエースが誰かとか、4番バッターが誰か、ということなんてまるで知らないのはもちろん、トーナメントの過程で「サイン盗み」が話題になっていたことも、今日初めて知ったくらい。

それでも改めて、関連記事をあれこれ眺めてしまうくらいのインパクトのあるニュースだったのは間違いない。

これからの30日弱の「平成最後のひと月」で、こんなデジャヴをどれだけ経験するのかはわからないけど、今、そんな他愛もない偶然の面白さを素直に味わえる環境にいることを感謝しつつ、もうしばらくは、平穏な日常を楽しみたいと思っている。

「新元号」騒動に思うこと。

その日(昨日)のうちに上げてもよかったのだが、さすがに一日明けてメディアの報道を見てからでよいかな、と思い一晩寝かせた新元号「令和」決定のニュース。

朝刊トップ面での取り上げられ方は大体どこも似たようなもので、首相会見での命名要旨を一通り説明したうえで、出典が「国書/万葉集」であること(というか中国古典ではないこと)を強調したり、「和」が「昭和」と被ることにフォーカスしてみたり、あるいは元号にはじめて使われる「令」という文字にフォーカスしてみたり、といったところ。

「新元号は日本の古典を典拠とする3案と、中国古典を出典とする3案の計6案から絞り込んだ。安倍晋三首相は1日のNHK番組で、首相官邸で開いた有識者による元号に関する懇談会では「国書を典拠とすべきだと有識者全員が言っていた」と明かした。出典については、菅義偉官房長官が記者会見で墨書を掲げながら万葉集巻五、梅花の歌三十二首の序文から引用したと説明した。「初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭(らん)は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す」との内容で、梅の開花とともに訪れた春への喜びをうたった部分だ。首相は記者会見で、万葉集について「幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書だ」と強調。「令和」には「人々が美しく心を寄せあうなかで文化が生まれ育つという意味が込められている」と説明した。」
日本経済新聞2019年4月2日付朝刊・第1面)

この場面で国書か中国古典化、ということにこだわりを見せることにどれだけの意味があるのかは疑わしいと思っているし*1、「万葉集」を「一億総活躍社会」に結びつける、といった話になってくると、さすがに悪ノリにもほどがあると思うが、そんな由来はともかく、新元号が中国の地名っぽい名称にならなかった*2、ということだけは、まぁ評価してもよいのかな、と。

そして、社会面に移ると、全国の「令和さん」の声だったり、5月以降に何か人生のイベントがある人へのインタビューを載せてみたり、と“祝福”ムードに満ちた記事が続く・・・*3

個人的には、初めて官房長官が額を挙げた時に感じた違和感はともかく*4、もう今更「元号」にこだわりを持つ時代じゃないだろう*5、という思いが非常に強いし、もしかしたら、「新元号」が話題になるのもこれが最後かも、という思いも微かに抱いたりはしているから、予想されたこととはいえ、「元号命」的な報道には少々辟易していたりもする。

ただ、それ以上に、今日一斉に出願されたであろう「令和○○○○」という商標がどれだけ生き残り、誰の、どの商標が一番最初に登録されるのか、ということの方に、関心を惹かれているところである。

商標審査基準 第3条第1項第6号
4.元号を表示する商標について
商標が、元号として認識されるにすぎない場合は、本号に該当すると判断する。
元号として認識されるにすぎない場合の判断にあたっては、例えば、当該元号が会社の創立時期、商品の製造時期、役務の提供の時期を表示するものとして一般的に用いられていることを考慮する。

特許庁Webサイト上のリリースも参照
www.jpo.go.jp

上記は、 もともと「平成最後の・・・」的な便乗商法用商標を意識して告知され、審査基準にまで明記されたものだったはずだが*6、これからは「令和」もターゲットになる、ということで、これから出願人と審査官の間で、どういう知恵比べが展開されていくことになるのか、目を凝らして眺めていくことにしたい。

*1:中世以前に、中国文化の影響を受けずに出来上がった古典なんて、元々ほとんど存在しないのだから。

*2:もし「安」とかが元号の中に入っていたら、確実に中国のどっかの地名を思い浮かべることになっただろうから。

*3:この辺の記事は、登場人物がちょっと変わるだけで、どの元号になっても使いまわせるタイプの代物だから、ほのぼのと遠くから眺める程度にしか目を通していないのだが。

*4:「平成」だって最初はそうだった。こういうのは使われていくうちに馴染むものだし、あとから出てきた他の候補案と比べれば、これが一番まともじゃないか、という気もするところなので。

*5:役所を除けば、世の中で使われる文書の年月日表記は、西暦に置き換えられている(というか、置き換えないとやっていられない)時代だから。

*6:そのため、昨年出された20件弱の「平成」関連商標がいまだに審査で拒絶対応orペンディング、という状況になっている。

区切りの第一歩。

暦のめぐりあわせゆえ、「月曜日」から始まった今年の新年度。
異動発令やら何やらで、この日が区切りの日となった人も多かったことだろう。

特に自分がうらやましいと思うのは、「入社式」をこの日に迎えた人たち、である。

これまで、自分のそういう節目の時は、いつも決まって「1日」が週の真ん中に来ていて、その結果どうなるかといえば、それまで普通に流れてきた日常が、ある日を境にガラッと切り替わる、という感覚を味わうことになる。

学生の時は、卒業式こそちょっと早めに終わっていたものの、前日の夜まで大学には顔を出していて、終わった後にそれまで通り気の知れた仲間と遅くまで飲んだ後に、翌日入社式会場に直行。

その次のタイミング(司法研修所の入所式)でも、31日深夜まで残った仕事&片付けを散々やった後に、翌日朝から180°異なる環境に放り込まれた。

自分は元々、環境の変化にはそんなに強くない人間だし、そんな人間が、週のど真ん中で平穏に過ごしてきた日常から急に切り離されて、まったく違うところにいけば、そりゃあ戸惑う。

なので、そういう節目の記憶って、大概が、フレッシュな環境でウキウキしている周囲を横目に見ながら、本能的に環境変化への拒絶反応を起こしている自分の平静を保つために、必死にもがいていた苦しい記憶として刻まれている。

だから、当時は、せめて土日で一息ついて、気持ちを軽く切り替えてから新しい環境に迎える暦になっていればな、と、カレンダーを心から呪ったものだった。

翻って今年。

いくら曜日の並びに恵まれているからといって、同じように節目や門出を迎えた人たちが、皆、気持ちを切り替えて、フレッシュな気持ちで臨めているわけではない、ということは容易に想像がつくところ。

ただ、最初のスタート、一歩目が、戸惑いと憂鬱な感覚から始まったとしても、時間を重ねるごとにその感覚が変わっていき、どこかのタイミングで最初の一歩目の日のことを「あの時は」と懐かしく思えるときがくることを自分はこれまでの経験から何度となく学んだし、二歩目以降の実績の積み重ねで、一歩目がどうかなんて関係ない、ということも証明してきたつもりなので、土日を挟んだのにまだ気持ちが切り替えられずにもがいている、という人がいたら、このエントリーを読んで、少しでも心の慰めにしていただければ、と思っている。

そして、最悪のスタートから20年以上が過ぎ、カレンダーのめぐりあわせを恨んでいた当時の青年が、ようやくちょっとだけ、暦の恩恵を受けることができた、ということも、この場を借りて、ひっそりとご報告させていただくことにしたい。

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