終戦記念日に思うこと

前の職場に、
毎年年末になるとどこからか「皇室カレンダー」を持ってきて、
大事そうに飾っている方がいた(笑)。


その職場の恒例行事は、新年の靖国詣(爆)*1


先の大戦尊い命を落とした人々の国を想う気持ちの強さを
否定する気は毛頭ない。
彼らの声は、平和惚けした日本で安穏と過ごしてきた自分の心にも、
熱く響いてくるものである。


だが、だからこそ、それを政治的に利用してきた過去は、
きっちりと清算しなければならない。


高橋哲哉教授の問題作『靖国問題*2を読んだ。
この本にはおそらく賛否両論でてくるだろう。


過去の植民地政策全てを断罪しているくだりや*3
国立追悼施設について論じるくだりは*4
やや過剰な記述に走りすぎではないか、と自分も思う。

特に前者については・・・。


歴史を客観的に評価するためには、
常にその時代の状況を念頭におく必要がある。
欧米列強が植民地政策を競いあっていた時代にあって、
日本が台湾なり、朝鮮半島なり、満州なりに進出していったのは、
歴史の必然だと自分は思っている。
だから、後世になって、あれは全て間違いでした、ごめんなさい、
と平身低頭するのは、自虐的との誹りを免れまい*5


だが、高橋教授の主張が的を射ていると思うのは、
次の一点においてである。

靖国神社の「祭神」は、「単なる戦争の死者」ではない。日本国家の政治的意思によって選ばれた特殊な戦死者なのである*6

小林よしのり氏が書かれた「靖国論」では、
靖国」が日本の伝統的習俗の中に位置づけられ、
それゆえ高橋教授の論に対しても、痛烈な批判が展開されている。


だが、死者の御霊への畏敬、崇拝が日本文化に根付いているとしても*7
先の大戦前、そして大戦中に政治的な道具として機能してきた「靖国」を
そのような伝統的な日本文化の上に位置付けるのは、明らかに無理がある。
そして、この点においては、高橋教授の論に理があると言わざるを得ない。


また、本書に多くは書かれていないが、
忘れてはならないのは、戦死者の遺族の中にも、
靖国」に対して複雑な思いを抱き続けている人が少なからずいる、
という事実である*8


問題の本質は、大戦で命を落とした人々が、
未だに「あの靖国」に祭られていることそのものにあるのであって、
そのことの重大性に比べれば、
A級戦犯が合祀されているかどうかは、些細な問題に過ぎない、
という点については、自分も高橋教授と同意見である*9


靖国」は、国を背負って死んでいった者の想いの
象徴としての一つの「カタチ」である。
だが、そのような「カタチ」には、常に政治的な思惑が付きまとう。


戦後生まれの政治家が、机上で「国際貢献」を唱え、
自らは現地に入ることさえせずに自衛隊サマワに送る一方で、
靖国詣」をして「国のために命を捧げた」者を賛美する様は、
不快感を通り越して、滑稽でさえある。


国を想い(&憂い)、国のために汗を流す、という心意気は、
本来、誰もが持ち続けているべきものだと思う。
自分たちの世代に、概してそのような思いが欠けているということも、
否定はしない。


だが、そのような心意気は、上から押し付けられるべきものではない。
人それぞれどのような美学を持とうが、それは個人の自由。
しかし、「お国のために」生きることを半ば強制するような社会は、
「お国のために」死ぬことが推奨される社会と同じく、
不健全なものだと思う。
そして、そのような不健全な世の中をつくるために、
靖国」という「カタチ」を利用するのは、
それこそ、真に国を想って死んでいった者への冒涜でしかない。


だが、世の中は確実に、不健全な方向へ向かっている。
そして、そんな時代の中で、「カタチ」の存在が、
必然的に国家的な、政治的な思惑を伴う可能性を否定できない以上、
そのような「カタチ」はこの世から消さなければならない。


自分は、そう思っている。

*1:もちろん任意なのだが・・・。

*2:高橋哲哉靖国問題』(筑摩書房、2005年)

*3:高橋・前掲注1)80頁-。

*4:高橋・前掲注1)179頁-。

*5:間違いがあったとすれば、かの国なり地域なりを「植民地にしたこと」ではなく、「あまりに傲慢な態度で支配した」ことにあるのだと思う。ただ、「従軍慰安婦」の例をひくまでもなく、戦後になって語られている「日本軍の横暴さ」に対する証言の信憑性には疑わしい部分が多い。日本統治時代の設備投資が、戦後のかの国らを支えるインフラになっていたことも見落としてはならない。

*6:高橋・前掲1)178頁。

*7:日本人の宗教観、死生観を果たしてそこまで一くくりにできるのか、という疑問はあるが

*8:これは決して旧植民地の軍属に限った話ではない。かくいう自分の縁戚にも、靖国に行くことをかたくなに拒んでいた者がいる。「遺族会」は全ての遺族の声を代表しているわけでは決してない。

*9:高橋・前掲注1)64頁。

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