ここのところ話題になっている道路公団をめぐる談合事件は、
ついに道路公団の内田副総裁の起訴にまで至った。
独禁法違反幇助ではなく、「正犯」としての起訴なのは極めて異例。
発注者側が主導的に受注調整をやっていたことの責任を
それだけ重く見ているということなのだろう。
法律関係の人間が「談合」などと聞くと、
コテコテの法律違反行為だと呆れ果てるのが常だが、
技術屋さん、特に建設工事や設備系の業界の人と話をしていると、
感覚はだいぶ異なる。
(ちなみにこれは受注者側の人間の話ではなく、発注者側の人間の話である)
曰く、
自由競争で受注させていたら、建設工事の品質など保つことは到底できない。元々技術力ではメーカーごとに差があるし、得意分野も異なる。仮に技術力のない会社が精一杯努力して品質を上げたとしても、タイトな工期に間に合わせるのはほぼ不可能。なので指名競争入札とはいっても、最初から落札する業者は決めておくしかない。
とのこと。
確かに、競争に参加する業者が、
みな一定の品質を満たす製品を提供できるだけの能力を有していなければ、
競争によるメリット以上に、デメリットが大きくなるのであって*1、
それを念頭に置くことなく、形式的な違法状態だけを指摘しても、
建設的な議論とはいえない。
もちろん、そのような技術的格差が生じる背景には、
談合体質によって本来市場にいるべきでない事業者まで生き残らせている、
という実態があるからではないか、という批判も当然あるだろうが、
会社がたくさんの雇用を抱えている存在である以上、
極端な自由競争主義的発想だけで問題を解決しようとするのは、
極めて危険な試みといえる。
そして、連鎖倒産による雇用不安を引き起こすことなく、
業界全体の技術力の維持と向上*2を図るために、
わが国の談合文化は機能してきたのである。
内田副総裁は、起訴事実を否認する姿勢を示しているようであるが、
おそらく、心の中では↑のようなことを考えているに違いない。
だとすれば、被疑者がとるべき道は、
中途半端に自白して情状酌量を求めるというものではなく、
徹底的に争って、発注工事の品質の確保だの、業界全体の技術力向上だの、
といった「正当化事由」を主張していくというものであるはずだ。
そうやって、白黒はっきり付けることなく、
単に捕まった人間個人の資質の問題として、被疑者を断罪しても、
結局何年か経てば同じことが繰り返されるだけである*3。
自分はそもそも、自由主義大嫌い、公取委大嫌い、の人間なので、
上の主張がどれだけ説得力のあるものになっているかは分からんが・・・