「知的総会屋」

自分がまだ中学生か高校生だった頃、
バブルというものがあって、
それと相前後して、怪しげな紳士達が新聞紙上を賑わせていた。


「買占め屋」だとか「乗っ取り屋」だとか、
言われた彼らは、バブルマネーに物を言わせて、
会社の株を買いあさり、自分たちの要求を突きつけて、
時に裏社会も巻き込みながら、
小説にまでなるような華麗な闘争を繰り広げ、
やがてバブルとともに、記憶の彼方に消えた。


根っこは同じでも、
単なる暴力や恫喝ではなく、
「資本」の論理を前面に押し出した点では、
彼らの存在は、従来の「総会屋」とは一線を画すものであった。


にもかかわらず、
世間は、彼らを「総会屋」の亜流としてしか見ていなかったように思う。
精一杯の賞賛の言葉が「知的総会屋(笑)」。


最近、某何とかファンドが、関西私鉄の株を買占めたことで、
紙上をにぎわせている。
挙句の果てに出してきた提案は、
阪神タイガースの株式上場」、「選手へのストックオプション」、
甲子園球場命名権販売」などなど、
まあ、何と言うか、ちょっとしたファンならすぐに思いつきそうな、
稚拙かつ二番煎じ的な提案ばかりで、
あの高名な●上様が、わざわざこんな小さな話にご関心をもっていただけるとは、
と、阪神球団のオーナーが泣いて喜びそうな話である(笑)。


例のファンドが、当初派手にメディアに登場してきた頃は、
確かに、何かやってくれそうな期待感があって、
それなりに関心を持ってみていたのだが、
何度も繰り返される手法を見ているうちに、
「ああこれは・・・」と思った。


時を越えて復活した「知的総会屋」である。
「グリーンメイラー」なる一見きれいな言葉も出てきてはいるが、
それだとちょっとニュアンスが違ってくる。


やっぱり「総会屋」という言葉が彼らには良く似合う。


何が問題かと言えば、
彼らがお題目のように唱える「資本の論理」「株主の利益」という
言葉とともに出てくる「提案」だの「主張」だのが、
あまりに子供じみているのである。


本場アメリカでさえ、主張するのがはばかられるような、
「資本原理主義」に基づく数々の放言。


内部留保が多すぎる。配当で株主に還元せよ。」


余計なお世話である。
会社は現在の株主のためだけに存在しているわけではない。
会社は、未来の株主と無限に存在するステークホルダーをも見据えて、
行動しなければならない。


「不採算事業を整理して、経営資源をコア事業に集中せよ。」


経営学の教科書には、確かにそう書いてある。
だが、企業経営は、教室の中で行われるものではない。
一見不採算事業に見えても、将来の利益の芽がそこに潜んでいる可能性はある。
一見無駄な事業であっても、それで養われている従業員は存在する。


いろんなステークホルダーの利害得失を総合的に判断して行うのが
企業経営というものである。
教科書どおりの経営をすることでみんながHAPPYになれるのであれば、
大学の先生に経営を任せてやれば良い。


実は自分の会社の株主名簿にも、
何とかファンド様の名前があって、
事前に届けられた質問書に書かれていた「提案」とやらを拝見したことがある。


かすかな期待をしていたが、
残念ながら、それは、
新入社員が研修のグループディスカッションで雄弁に語っている姿と
さほど変わらないレベルのものに過ぎなかった。


誰でも思いつくような定石の経営方針を
その企業がとっていないのには必ず訳がある。
その裏側の事情を把握した上で、地道に手を打っていって初めて、
理想的な経営に一歩二歩近づいていくことができる。


一見ドラスティックに見えるカルロス・ゴーンの改革も、
決して突拍子もない上からのアイデアによって達成されたものではない。
ゴーン氏がやったことは、社内の若手管理職を積極的に活用し、
「やろうと思っていたけどできなかったこと」をできる環境を整えた、
ただそれだけのことである。


村●氏は、元々霞が関の一官僚に過ぎない。
残念ながら、経営に関してはど素人である。
現場での下積みの経験もなければ、営業の第一線で旗をふった経験もない。


外から素人が手を出してかき混ぜて、
それで良くなった、という会社は、
少なくともこの国の現代史には存在しない。


それが現実である。


阪神タイガースの上場提案」のような些細な話に没頭していただけるのは、
この国にとっては却って良いことかもしれないが、
これも一言で言えば、

余計なお世話

である。

資本でショーアップされたファンサービスや、
金銭に任せた大型補強など、誰も望んではいない。
少なくともタイガースファンは。
最下位続きの90年代なら、
まだ彼が「救世主」になりうる余地はあったかもしれないが、
ブランドを確立しつつある今になってしゃしゃり出てくるのは、
単なるいいとこ取りに過ぎない。


かつての「知的総会屋」が企業と繰り広げた戦いは、
裏社会の人間が、日の当たる舞台に飛び出すための
一種の「挑戦」であり、「闘争」であった。
法的、道義的に見れば多くの問題があったにしても、
今になってみると、心情的には共感できるところも多い。


それに引換え、現代の「知的総会屋」は、
最初から日のあたる舞台で、あたかも株主にとっての「正義の味方」のように
ふるまうエスタブリッシュメントである。


「株価を吊り上げて(こっそり)売って、また違う会社の株を買い占める。」
やっていることは何ら変わらないのに・・・*1


そんな村上世彰氏に、自分は決して共感することはできない*2

*1:彼が「エスタブリッシュメント」に仕立て上げられるのは、彼のこれまでの経歴ゆえである。「元官僚」の肩書の何と便利なことか。

*2:今後、企業法務担当者は、望むと望まざると、「知的総会屋」との戦いに少なからず直面せざるをえなくなる。時にメディアや株主世論をも味方につける彼らとどう互角に遣り合っていくかに、法務担当者としての真価が問われることになろう。

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