「憲法学者はなぜ著作権を勉強する必要がないか?」


インクカートリッジ訴訟は言うまでもなく、
最近書きたいネタがたくさんたまっているのだが、
今週はバタバタしている上に、南へ北へとしばらく旅に出ることもあって、
とてもさばけそうにない・・・orz。
とりあえず今日は、軽めのエントリーを一本。


発売されてからだいぶ経っているので、
いまさら、という感もあるが、
長谷部教授の法学教室での連載
『Interactive憲法-B助教授の生活と意見』で、
憲法著作権」というテーマが取り上げられている*1


前号の安念教授に続き、
憲法学者の方が知的財産権に関するコラムを書いているというのは、
なかなか興味深い。


本コラムでは、「B助教授」と「H教授」の掛け合いを通じて、
米国における議論から、「著作権制度と表現の自由」という問題について、
様々な考え方が示されている。


いつもながらの“掛け合い形式”なので、
長谷部教授ご自身の“見解”が明確に打ち出されているわけではないが、
教授の“分身”たるB助教授の拠る立場や、
脚注のコメント、そしてそもそもこのテーマの設定自体からは、
長谷部教授ご自身も、現在の著作権制度の憲法上の問題性を、
十分に意識されている、ということがうかがえる。


本コラムで「B助教授」は、

①報道やパロディ等、利用形式によっては、他の表現の可能性が十分に開かれていない場合がありえること(前掲・34頁)
②公正使用の法理やそれに相当する規定が著作権法に規定されていても、それだけで表現の自由が十分に勘案されるという保証はないこと(前掲・35頁)
③「著作権者の表現活動の促進」という制度目的は、「著作権侵害を問われる側」の表現の自由に配慮したものとはいえないこと(前掲・35頁)
著作権制度によって実際に保護されているのは、「最初の著作者」とは契約上の関係しかないような法人の利益であることが多いこと(前掲・35頁)*2
⑤経済的な報酬を与えることで著作活動を促進するというのが著作権制度の趣旨だとすると、表現活動を差し止める権利まで著作権者に認めるべきなのか疑ってみる余地があること(前掲・36頁)*3

といった議論を展開しており、
短いコラムの中とはいえ、現在様々な識者に指摘されている問題は、
ここにほとんど網羅されている、と言って良いように思われる*4


本コラムは、

「(予め組み込まれた)調整機構を最大限活用して合憲限定解釈をしても、それでも憲法上の表現の自由が侵害される可能性を否定するのは無理」
「(表現の自由との調整を図る十分な措置が)不十分だとすると、個別の保護制度が、制度として憲法に違反することだってありえないとはいえない」
「たとえ、調整措置が一般的には十分なものだとしても、・・・(パロディ作品のように)既存の調整措置では適切な保護が困難なものもあるから、それについては適用違憲の判断ができることもありうると考えることになる」(以上、H教授の発言として。前掲36頁)

という発言で事実上締めくくられているが*5
「特定の利害関係者」の声に“必要以上に”引きずられがちな
近年の著作権法改正論議のプロセスを見ていると、
上記のような問題意識の重要性を痛感させられる*6


具体的にどういう制度設計が望ましいのか
そんなに簡単に答えが出るとは思えないが、
とりあえず、審議会メンバーに憲法学者を入れることから始めたらどうだろう・・・。
(>文部科学省 殿)(笑)

*1:長谷部恭男「憲法学者はなぜ著作権を勉強する必要がないか?」法学教室305号33頁(2006年)

*2:脚注15では、「著作者の著作意欲の核心が経済的利得の獲得にある」という前提自体への疑問も投げかけられている。

*3:その上で、「B助教授」は、「報酬の確保に限ってこそ著作権の保護と表現の自由の妥当な調整が成り立つという立場」もありうるとしている。

*4:個人的には、特に④の点は、今後意識されるべき指摘だと思う。コンテンツホルダーたる「法人」が行っている投資の多くは、「創作活動に向けられたもの」というより、「営業・販促活動に向けられたもの」であり、現在、その投資を保護するために「著作権」という道具が用いられているのは否めないからだ。

*5:最後の締めは「憲法学者著作権を勉強しない理由は実はない」であるが(笑)。

*6:かといって、「表現の自由」とのバランスを強調しすぎると、結果として、そのような“バランス感覚”を悪用するフリーライダーを生み出すことにもつながるように思え、このあたりのさじ加減は相当難しいのであるが・・・。

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