昨日のエントリーはひとつの前フリである。
取り上げたかったのは、
知財高裁平成18年2月28日(第1部・篠原勝美裁判長)*1。
被控訴人(被告)らが製作したテレビ番組、およびそれに関する書籍において、
控訴人(原告)の著作した小冊子や手紙、顔写真等が使用された、
として、死刑囚である控訴人が、
肖像権、プライバシー権、著作権、パブリシティ権等の侵害を主張し、
損害賠償を求めた事件である。
本件は塀の内側からの本人訴訟であり、
それ自体相当無理がある上に、
侵害されたと主張する上記権利をまとめて「パテント」といってみたり、
賠償請求額が200億円だったり*2と
“トンでも訴訟”としての魅力を存分に発揮している事件であるのは、
否定できない。
本件の原審である東京地判平成17年8月25日(民事第46部・設楽隆一裁判長)*3
について、大塚先生のその時期のエントリーを見ることができるが、
(http://ootsuka.livedoor.biz/archives/50037735.html)
「判決文を読む限りいったいこの死刑囚はなにが不満だったのか、判然としません。
こんな訴訟を受けざるを得なかった被告側の労苦については同情を禁じ得ません。」
という感想を誰しもが持ちたくなる事件であることは間違いないだろう。
なぜなら、被控訴人が制作した番組および書籍は、
「控訴人の母親へのインタビュー,本件刑事事件及び本件強盗事件の内容,捜査の経緯,控訴人の生い立ち,控訴人が本件強盗事件に至った経緯,支援者らによる独自調査の結果,本件刑事事件の被害者の遺族へのインタビュー等で構成され,全体として,本件刑事事件をえん罪事件として扱い,控訴人が真犯人であることに疑問を呈する内容」
であって、何が控訴人の心証を害したのか、
ここから読み取ることは困難だからである。
本人訴訟ということもあってか、
請求の特定さえままならない控訴人・原告の主張に対し、
裁判所の応答は“優しい”。
いわく、
「上記認定の事実によれば,テレビ朝日の番組「ザ・スクープ」の制作スタッフは,本件刑事事件がえん罪事件であることを証明するための報道活動をしている旨の自己紹介をした上で控訴人に取材をしており,控訴人は,この取材に応じて,自己の生活状況等を述べ,併せて,自らが作成した取調べ状況のイラスト(本件イラスト)を渡して積極的に協力していたのであるから,将来,「ザ・スクープ」により本件刑事事件に関する報道がされ,控訴人の情報提供がその報道の一資料として用いられることを十分に理解した上で,取材に協力していたものというべきである。
そして,報道活動の一環として,何らかの形で番組の内容が書籍に掲載されることは,通常,予想されることであるところ,上記認定のとおり,本件番組も本件書籍も,全体として,本件刑事事件をえん罪事件として扱い,控訴人が真犯人であることに疑問を呈する内容であり,控訴人は,控訴人の支援者から,出版された本件書籍を受け取っていたにもかかわらず,これに対して,被控訴人らないしテレビ朝日に対して何らの苦情の申入れや抗議等をすることもなく,本件訴訟の提起までの約10年間を経過したものである。
以上のような事情の下においては,控訴人は,被控訴人らに対し,本件番組を制作・放送すること,本件イラスト,本件手紙等を掲載して本件書籍を制作・出版すること,並びに,被控訴人らが,本件番組及び本件書籍制作のための情報提供をすること等について,少なくとも事後的に黙示の承諾をしたものと認めるのが相当である。」
さらに、裁判所は、
出版権の規定等に着想を得た後続の控訴人の主張に対しても、
逐一応答しつつ、最終的に控訴を棄却している。
本件は中田英寿選手の事件や、
三島由紀夫の手紙事件とは異なり、
被控訴人による取材の段階では、むしろ控訴人の側から
積極的に情報提供が行われた、という節がある。
また、裁判所が指摘するように、
実際に番組の放映がなされてから
10年以上も控訴人らによるクレーム等は述べられていなかったのに、
突然振って沸いたような請求がなされた、というのは、
どう贔屓目に見ても、控訴人側に有利に働く材料にはなりえない。
その意味で、本件に関する裁判所の判断はいたって妥当なものと思われ、
事後的な「黙示の許諾」を導き出すまでにいたる道のりは、
むしろ親切すぎるほど丁寧に思えるほどである。
・・・・・・・・
だが、本件の控訴人がおかれている立場に思いをはせたとき、
一概に“トンでも訴訟”、として冷笑するのは酷なようにも思える。
控訴人が自ら進んで情報を提供した高裁判決の直後とは異なり、
上告が棄却された今となっては、
控訴人は、今や死刑囚としてその日を待つばかりという立場にある。
そして、そのような状況に追い詰められた
控訴人が、かつての“支援者”とはいえど“自分を救えなかった人々”
に対して、やり場のない気持ちの矛先を向けることは、
決して不自然なこと、とまではいえないからである。
「死刑制度」はかくも重い。
何が控訴人を200億円の請求に駆り立てたのか、
外からうかがい知ることはきわめて困難であるが、
「死」の最終宣告を突きつけられた者の“孤独”を
そこに垣間見ることができる、といったら、いい過ぎになるだろうか?
ちなみに、本件控訴人が被告人として裁かれた、
埼玉県・宮代町の母子殺人放火事件は、
様々なところで取り上げられている。
(http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage246.htm)
物的証拠の不在、別件逮捕による過酷な取調べ、
そして、第三の自供者の存在など、
これが“冤罪”になるための舞台装置は整っているように思われるが、
果たして・・・・?
*1:http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/Listview01/B65F7DBCAC31AAE34925712C002CB527/?OpenDocument
*2:控訴人は、控訴審において請求を1000万円(一部請求)から満額の200億円まで拡張しているが、拡張部分については訴訟救助が受けられず、結局印紙代約4000万円を負担することができなかったため、拡張部分については請求が却下されている。
*3:http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/Listview01/AC2271851AA842974925710E002B128C/?OpenDocument