一審判決取消は妥当。だが・・・

富士屋ホテル創業者に関する記述をめぐり、ノンフィクション作家と神奈川県知事の間で争われていた著作権侵害訴訟の控訴審判決が出た。

松沢成文神奈川県知事の自著で著作権を侵害されたとして、ノンフィクション作家山口由美さんが知事と出版元の講談社に印刷や販売の禁止などを求めた訴訟の控訴審判決で、知財高裁は14日、著作権侵害を一部認めて「2行分」を削除しない限り印刷や販売を禁じた一審判決を取り消し、請求を棄却した。知事側の逆転勝訴。」
日本経済新聞2010年7月15日付朝刊・第38面)

元々この事件の第一審判決は、原告が多数指摘していた類似部分のうち、僅か1ヶ所(しかも瑣末な部分)のみを侵害と認定して、強引に一部認容判決に持っていった、という奇妙なものであり、当時、当ブログでも疑義を投げかけていたものだったから*1控訴審で侵害成否の認定が覆り、一審判決が取り消されたのは至極当然のことだろうと思う。


もっとも、結論として、原告(被控訴人)の請求をすべて棄却するのが妥当だったか、といえば、そこにもまた疑問はあるわけで・・・。


以下、控訴審判決を簡単に見ていくことにしたい。

知財高判平成22年7月14日(H22(ネ)第10017号、第10023号)*2

控訴人兼附帯被控訴人 株式会社講談社、X
被控訴人兼附帯控訴人 Y


控訴人(原審被告)が、原審で一部箇所の著作権侵害が認定されたことを不服として控訴する一方、被控訴人(原審原告)も原審でわずか12万円の損害賠償しか認められなかった(請求額は695万8075円)ために、請求額を120万円に減縮した上で附帯控訴した、というのが本件控訴審の状況であった。


当事者の主張にもほとんど追加されたところはなかったようで、実質的には原審が認定した「2行分」(No.71)の侵害の成否だけが争われることになったようである。


さて、この点につき、控訴審は以下のような判断を示した。


まず、裁判所は「2行分」の共通性について、

(ア) この箇所の被控訴人書籍記述部分(対比文章。「正造が結婚したのは,最初から孝子というより富士屋ホテルだったのかもしれない。」)と控訴人書籍記述部分の前段(本件文章。「彼は,富士屋ホテルと結婚したようなものだったのかもしれない。」)とは,いずれも,正造と富士屋ホテルとの関係を,「(富士屋ホテル)と結婚したようなもの」「だったのかもしれない」との用語で記述している点が共通する。
そして,対比文章及び本件文章は,いずれも,(1)正造が明治40年にいわゆる婿養子として孝子と結婚したこと(被控訴人書籍(甲2)105頁以下及び控訴人書籍(甲1)203頁),(2)正造と孝子が大正15年4月に離婚したが,婿養子であった正造が富士屋ホテルにとどまる一方,仙之助の実子である孝子が山口家を出たこと(被控訴人書籍150頁以下及び控訴人書籍203頁),(3)孝子が離婚後に再婚した一方で,正造が再婚しなかったこと(被控訴人書籍150頁以下及び控訴人書籍218頁)の記述に引き続いて用いられており,しかも,対比文章及び本件文章に続いて,これを裏付ける事実として,(4)正造が自らの設立した学校等の関係者を子どもとして扱うこととして,富士屋ホテルレーニングスクールを設立するなどしたことが記述されている(被控訴人書籍152頁及び控訴人書籍218頁以下)。

と述べた上で、

(イ) しかしながら,「(特定の事業又は仕事)と結婚したようなもの」との用語は,特に配偶者との家庭生活を十分に顧みることなく特定の事業又は仕事に精力を注ぐさまを比喩的に表すものとして広く用いられている,ごくありふれたものといわなければならない。しかも,「だったのかもしれない」との用語も,特定の事実に関する自己の思想を婉曲に開陳する際に広く用いられている,ごくありふれた用語である。
(ウ) してみると,前記の正造と富士屋ホテルとの関係の特異性と,「結婚したようなものだったのかもしれない」との用語の慣用性に鑑みると,前記(ア)(1)ないし(4)の事実に接した者が,これについて「正造は,富士屋ホテルと結婚したようなものだったのかもしれない。」との感想を抱くことは,それ自体ごく自然なことであって,対比文章と本件文章との前記共通点は,結局,正造と富士屋ホテルとの関係という事実に関して共有されるであろうごく自然な感想という思想であるというべきである。また,対比文章及び本件文章は,これが表現であるとしても,上記のような思想をいずれもごくありふれた用語で記述したものであるから創作性が認められない。したがって,対比文章と本件文章とでは,表現それ自体ではない部分又はせいぜい表現上の創作性のない部分において同一性を有するにすぎないから,いずれにせよ,複製又は翻案に当たらない

と至極常識的な判断を下している。


そして、被控訴人の主張に対しても、

(エ) この点について,被控訴人は,「仕事(会社)と結婚」との表現は,「家庭(夫婦)生活よりも仕事を優先する仕事人間」との脈絡で皮肉等の否定的なニュアンスが込められることが一般的であるところ,対比文章にはそのようなニュアンスは感じられず,むしろ,対比文章は,正造とホテルとの間の運命的・宿命的なつながりに関する深い文脈であって,「かもしれない」との表現を受けて,読者に感慨を迫るものとなっているから,創作性が認められる旨を主張する。しかしながら,「仕事(会社)と結婚」との表現に否定的なニュアンスが込められていることが一般的であるとまではいえないし,「かもしれない」との用語も,前記のとおり,ごくありふれたものであるから,これを「仕事(会社)と結婚」との比喩と組み合わせたからといって,直ちに創作性が認められるというものではない。
 また,被控訴人は,対比文章に先立つ歴史的事実等を前提とすれば,正造と富士屋ホテルとの関係を表現する方法として,「ホテルと結婚」のほかにも多数の選択肢の幅があるから,創作性が認められる旨を主張する。しかしながら,特定の思想を表現する方法に多数の選択肢があるとしても,その選択された表現自体がありふれたものであれば,これに創作性を認めることができないことは明らかである
したがって,被控訴人の主張は,いずれも採用することができない。」
(以上12-14頁、強調筆者)

とあっさり片付けている。


「表現の幅」という観点から創作性概念を捉えようとする考え方(被控訴人が依拠していると思われる考え方)に立脚した場合には、「表現方法に多数の選択肢がある」のに、「表現自体がありふれている」という評価をするのは、ちょっと矛盾することにもなりそうだが*3、端的に「ありふれている」として侵害を否定した本判決の結論には、自分も全く異論はない*4


そして、原審で唯一の侵害箇所とされた箇所について侵害を否定したことで、知財高裁は原告の請求をすべて棄却する、という知事側逆転勝訴、という結論に至ったのである。

被告は一切の責めを負わないのか・・・?

瑣末なありふれた表現の創作性が否定され、複製権侵害が否定された。
それはそれで、間違ったことではないと思う。


だが、原審で原告が強く主張していた「素材の配列や選択」の類似性についてはどうだったのか。


控訴審判決は、原審原告が指摘した21カ所の類似点について個別に検討し、

「被控訴人書籍記述部分の上記事実の選択及び配列自体に表現上の格別な工夫があるとまでいうことはできない。」
「むしろ,被控訴人書籍記述部分には,・・・・という事実を記述しているのに,控訴人書籍記述部分にはそれがなく,控訴人書籍記述部分には,・・・・・・・記述や,・・・・・・記述があるのに,被控訴人書籍記述部分にはそれがないことに加えて,控訴人書籍記述部分では,上記事実が・・・・・・の順序で記載されているため,両者は,事実の選択及び配列が異なっている。」

といった具合に、相違点を指摘している。


そして、

「既に説示したとおり,著作権法は,思想又は感情の創作的表現を著作物として保護するものである(著作権法2条1項1号)から,思想,感情若しくはアイデア,事実若しくは事件など表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分は,著作権法による保護が及ばない。すなわち,歴史的事実の発見やそれに基づく推論等のアイデアは,それらの発見やアイデア自体に独自性があっても,著作に当たってそれらを事実又は思想として選択することは,それ自体,著作権による保護の対象とはなり得ないそのようにして選択された事実又は思想の配列は,それ自体としてひとつの表現を構成することがあり得るとしても,以上のとおり,原判決添付別紙対比表2記載の各被控訴人書籍記述部分の事実又は思想の選択及び配列自体には,いずれも表現上の格別な工夫があるとまでいうことはできないばかりか,上記各被控訴人書籍記述部分とこれに対応する各控訴人書籍記述部分とでは,事実又は思想の選択及び配列が異なっているのである。」
「したがって,上記各控訴人書籍記述部分は,これに対応する各被控訴人書籍記述部分と単に記述されている事実又は思想が共通するにとどまるから,これについて各被控訴人書籍記述部分の複製又は翻案に当たるものと認めることができないことは明らかである。」(31-32頁)

として、最終的にはこれらの点についても侵害を否定した。


しかし、個々の素材がいかに(それ自体では)創作性のない事実で構成されているからといって、元の書籍が挙げている事実を一部端折り、順序を少し入れ替えたくらいで、↑のように言い切ってしまうことが果たして良かったのかどうか。


この理屈で行くと、拾い集めた事実を丹念に組み立てて自然な流れで構成した「史伝」系のノンフィクションの作品にも、(それをデッドコピーしない限り)ほとんど著作権法の保護が及ばないということになってしまうわけで・・・*5


そういったノンフィクション作品の保護は、もはや著作権法の範疇に属することではない、と言ってしまえばそれまでのこと。


ただ、依然として何となく違和感は残る・・・そんな決着である*6

*1:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20100204/1265525229

*2:第4部・滝澤孝臣裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100716152954.pdf

*3:例えば、中山信弘教授のテキストでは、「ありふれた文章や極めて短い文章等は、誰が書いても同じあるいは類似した表現とならざるを得ないので、混同理論により、創作性が認められないことになる。」「ありふれた文章や極めて短い文章等といえども思想・感情を表現していることもありうる。それらについては、仮に独自に創作したとしても、表現の選択可能性が著しく狭いので創作性がないと考えるべきであろう。」という説明がなされている(中山信弘著作権法』(有斐閣,2007年)58〜60頁)。

*4:そもそも、この程度の表現に対した「幅」がない、というのは、第一審判決に対するエントリーを書いた際に、当ブログでも指摘していたところである。

*5:誰しもが容易に依拠できる原資料が存在するケースで、原告作品も被告作品もそれに依拠して構成したから同じような内容になった、という場合であれば納得はできるし、本件にもそのような事情があったのかもしれないが、高裁判決を読む限り、そのような事情があることまで読み取ることはできない。

*6:自分は、あくまで原審判決の書面で引用されていた原告主張に基づく対比に則って感想を述べているだけなので(その意味では原告代理人の主張の仕方が上手だったのかもしれない)、実際に原作品と問題となっている作品を読み比べて見れば、まったく別の感想を抱くことになるのかもしれないが、原告があえて訴訟に踏み切っていることや、原審が半ば強引に著作権侵害を一部肯定したあたりから推察すると、当たらずといえども遠からずかな、と思っているところである。