藤田宙靖判事の至言〜「最高裁判決法廷意見の分析」(第12回)

今回取り上げるのは、いろいろと議論を呼びそうな「君が代伴奏拒否事件」。


ネット上でも賛否両論飛び交っているこの事件だが、一方の側の論者が主張するほど「不当な」判決でもなければ、もう一方の側の論者がいうほど「常識的な」判決でもない、というのが筆者自身の率直な感想である。


仮にどこかの会社の入社式で、創業以来歌い続けられている社歌の伴奏を命じられた社員が、「これまで何人もの社員を過労死に駆り立ててきたような戦意発揚ソングを演奏するなんて自分の思想信条に反する」と主張して伴奏を拒否したら、おそらく「戒告」などという生易しい処分ではすまない不利益を被ることになるだろう。


教員といえども特権階級ではないのだから、自らの意思に基づいて命令を拒んだ以上、何らかの咎めを受けるのはやむを得ないのではないか(不満があるなら「君が代」を演奏しない私立の学校にでも行けば良い)、と考える人が多いのは当然の話であって、裁判所はそのような現実社会の感覚を素直に投影しただけだ、というのが前者の理由*1


一方、法的に見れば、本判決の多数意見の論旨には舌足らずなところや、論理のつながりが分かりにくいところが多く、決して“理想的な”判示がなされているとは言いがたい、というのが後者の理由である。


以下、多数意見から追ってみていくこととしよう。

最三小判平成19年2月27日*2

この事件は、市立小学校(日野市立南平小学校)の音楽専科の教諭である上告人が、「入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うことを内容とする校長の職務上の命令に従わなかったことを理由に被上告人から戒告処分を受けたため」、上記命令が憲法19条に違反し、上記処分は違法である、として処分取消を主張したものである。


多数意見は、原告が主張する「思想及び良心」の内容について、

「「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等ということができる」(2-3頁)

とした上で、ピアノ伴奏を拒否した行為について、

「上告人にとっては、上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものということはできず、上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである」
「客観的に見て、入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって、上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり、特に、特に職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。」
「本件職務命令は、上記のように、公立小学校における儀式的行事において広く行われ、南平小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し、音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって、上告人に対して、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない」(以上3頁)

と、本件が憲法上の「思想及び良心」にかかわる問題ではないことを強調する。


そして、ダメ押しとばかりに、憲法15条2項の「公務員は全体の奉仕者である」規定を持ち出し、それを受けた地方公務員法・学校教育法の解釈から、

「本件職務命令は、その目的及び内容において不合理であるということはできない」(4-5頁)

として、最終的に、

「以上の諸点にかんがみると、本件職務命令は、上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないと解するのが相当である」(5頁)

という結論を導いているのである*3


先述したように、この多数意見が導き出した結論そのものに異を唱える人はそんなにいないものと思われる。


しかし、本件が「思想及び良心」の問題ではない、とするのであれば本来不要なはずの「全体の奉仕者」論をあえて理由付けの一部として用いたあたりに“歯切れの悪さ”があるのは否めないし、そのことは結局は、本件が「思想及び良心の問題」なのか、という問いに裁判所が説得的な根拠を示しえないことの裏返しなのではないか、という疑念につながってくる。


そして、そのような疑念が生じる背景には、「君が代」伴奏拒否をめぐる処分、という“重大事”に対する判決としては“薄すぎる”本多数意見のスタイルがあるのではなかろうか。


そこで、続いて本判決に付された補足意見、反対意見を見ていくことにする。


那須弘平裁判官(弁護士出身)補足意見

多数意見の曖昧さを補うがごとく機能しているのが、那須裁判官の補足意見であり、いくつかのメディアでも好意的に紹介されていた。


那須裁判官は、結論として本件職務命令の違憲性を否定しているのだが、前提として、

「本件職務命令は、上告人に対し上述の意味で心理的な矛盾・葛藤を生じさせる点で、同人が有する思想及び良心の自由との間に一定の緊張関係を惹起させ、ひいては思想及び良心の自由に対する制約の問題を生じさせる可能性がある。したがって、本件職務命令と「思想及び良心」の関係を論じるについては、上告人が上記のような心理的矛盾・葛藤や精神的苦痛にさいなまれる事態が生じる可能性があることを前提として、これをなぜ甘受しなければならないのかということについて敷えんして述べる必要があると考える。」(7頁)

というところを出発点としており、「国歌なんだから伴奏して当たり前」「職務命令なんだから従うのが当たり前」的な感情的な論調とは一線を画しているところが、インテリ系タカ派論者にとって響きのよいものになっているのだろう。


もっとも、筆者自身は、上記の一節が予告する「なぜ甘受しなければならないのか」という点の説明を読んでイマイチ納得感が得られなかったのも事実である。


那須裁判官は、「学校教育の意義」と「多元的な価値の併存」の2点を強調している。


例えば、前者については、入学式におけるピアノ伴奏が、「入学式の進行において参列者の国歌斉唱を補助し誘導するという外部性をも有する行為」である、と指摘した上で、

「このような両面性を持った行為が、「思想及び良心の自由」を理由にして、学校行事という重要な教育活動の場から事実上排除されたり、あるいは各教師の個人的な裁量にゆだねられたりするのでは、学校教育の均質性や組織としての学校の秩序を維持する上で深刻な問題を引き起こし、ひいては良質な教育活動の実現にも影響を与えかねない」(8頁)

と述べているし、後者については、「君が代」を斉唱することに「積極的な意義を見いだす人々の立場をも十分に尊重する必要がある」と指摘した上で、

「そのような多元的な価値の併存を可能とするような運営をすることが学校としては最も望ましいことであり、これが「全体の奉仕者」としての公務員の本質(憲法15条2項)にも合致し、また「公の性質」を有する学校における「全体の奉仕者」としての教員の在り方(平成18年法律第120号による全部改正前の教育基本法6条1項及び2項)にも調和するものであることは明らかである。」(8-9頁)

と述べている。


しかし、いかにピアノ伴奏が外部性を有する行為だからといって、

「・・・思想・良心の自由を理由にして職務命令を拒否することを許しては、職場の秩序が保持できないばかりか、子どもたちが入学式に参加し国歌を斉唱することを通じ新たに始まる学年に向けて気持ちを引き締め、学習意欲を高めるための格好の機会を奪ったり損ねたりすることにもなり、結果的に集団活動を通じ子どもたちが修得すべき教育上の諸利益を害することとなる」(10頁)

と声を大にしていうほど、果たして本件は大げさな話なのだろうか?


思想・良心の自由を制限するからには、それに匹敵するだけの“名目”が必要なのは理解できるとしても、那須裁判官の“振りかぶった”説示は少々大げさすぎるように思えてしまう(思想・良心の自由を制限するために無理やりひねり出した理屈のように思えてしまう)のは筆者だけではないだろう。


また、仮に、本件のような事象が重大な教育的影響を及ぼす、という論旨をとるのであれば、同時に「心理的矛盾・葛藤や精神的苦痛にさいなまれる事態が生じる可能性がある」音楽教諭に対して、職務命令でピアノ伴奏を強制し、しかもそれに従わなければ懲戒処分にする、というドロドロした大人の諍いにより、「教育上の諸利益」が害されるおそれがある、ということも考慮しなければ、公平を欠くことになるように思われる。


赴任したての先生に無理やり職務命令でピアノを弾かせようとしなくとも、替わりの教諭に弾かせたり、初めからテープを流すことで、摩擦は回避できたはずであるし、そのほうがよほど教育的には良い影響をもたらしたはずだから*4


さらに、「多元的な価値の併存」は言うまでもなく重要なことであるのは認めるとしても、その価値を強調するのであれば、教諭の側の“多元性”もある程度認めなければ釣り合いは取れないのであり、上記説示に続いて、

「他面において、学校行事としての教育活動を適時・適切に実践する必要上、上記のような多元性の尊重だけではこと足りず、学校としての統一的な意思決定と、その確実な遂行が必要な場合も少なくなく、この場合には、校長の監督権(学校教育法28条3項)や、公務員が上司の職務上の命令に従う義務(地方公務員法32条)の規定に基づく校長の指導力が重要な役割を果たすことになる。そこで、前記のような両面性を持った行為についても、行事の目的を達成するために必要な範囲内では、学校単位での統一性を重視し、校長の裁量による統一的な意思決定に服させることも「思想及び良心の自由」との関係で許されると解する」(9頁)

と述べられているのを見ると、どうしても“行ったり来たり”感が生じてしまうのは否めない。

「入学式において「君が代」の斉唱を行うことに対する上告人の消極的な意見は、これが内面の信念にとどまる限り思想・良心の自由の観点から十分に保障されるべきものではあるが、この意見を他に押し付けたり、学校が組織として決定した斉唱を困難にさせたり、あるいは学校が定めた入学式の円滑な実施に支障を生じさせたりすることまでが認められるものではない」(10頁)

という那須裁判官のご意見は、確かに正論である。


しかし、本件上告人である音楽教諭がとった行為は、あくまで「伴奏を行わない」という消極的な意思表示であって、それをもって、特定の主張の押し付け、とみるのは困難であるし*5、更に言えば、同人は入学式当日に突然ヘソを曲げたわけではなく、事前に「自分の思想、信条上」ピアノ伴奏を行うことができない、という旨を事前に通告していたのであるから、ことさらに「君が代」の斉唱や入学式の円滑な実施を困難にしようとした、と解するのも難しいであろう*6


そして、補足意見の最後にある

「南平小学校において、入学式における国歌斉唱を行うことが組織として決定された後は、上記のような思想・良心を有する上告人もこれに協力する義務を負うに至ったというべきであり、本件職務命令はこの義務を更に明確に表明した措置であって、これを違憲、違法とする理由は見いだし難い。」(11頁)

のくだりなどは、(その前提となっている)「学校行事は統一性をもって整然と実施されなければならない」というドグマを仮に是認するとしても、俄かには受け容れがたいものがある。


「国歌斉唱を行う入学式」を「整然と実施」するために「協力する義務」があるとしても、人それぞれの「協力」の仕方、させ方があるはずなのであって、「ピアノを伴奏させることが当該教諭にとって唯一の「協力」できる方法だったのだ」という前提が存在しない限り*7、上記のような説示は説得力を欠くのではないだろうか。


以上、那須裁判官の説示には、ところどころ“秩序を重んじる”人々の琴線に響く部分があるのは確かだとしても、全体としてみた時には、論理的に反対勢力を説得しうるだけの説得力を欠くように思えてならない。

藤田宙靖裁判官(研究者出身)反対意見

このように、多数意見・補足意見ともに、(少なくとも筆者にとっては)納得感を抱かせるに十分な論旨を示せない中、唯一輝きを見せたのが、藤田裁判官が述べられた第三小法廷唯一の反対意見である。


藤田裁判官は、まず、「本件における真の問題」を

「入学式においてピアノ伴奏をすることは、自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なことであり、それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にこそあるように思われる。」(12頁)

と捉え、

「そうであるとすると、本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては、このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら、それに加えて更に、「『君が代』の斉唱をめぐり、学校の入学式のような公的儀式の場で、公的機関が、参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って、また、このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり、また、後者の側面こそが、本件では重要なのではないかと考える。」(13頁)

と述べて、「そのような信念・信条に反する行為を強制することが憲法違反とならないかどうか」は、「仮に多数意見の考えを前提とするとしても」再検討する必要がある、と説かれている。


単なる歴史観ないし世界観とは区別される、上記のような信条・信念を抱く者に対し、「公的儀式における斉唱への協力を強制することが、当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは、明白であるといわなければならない」とする藤田裁判官の意見は、筆者自身も大いに共鳴できるものであり、音楽教諭の主張を“単なる歴史観の問題”として処理している多数意見・補足意見に比べると、より本質に迫った見解のように思えてならない。


もちろん、上記のような説示にも“突っ込みどころ”はいくつかある。


一つは、過去の判例等に照らして、上記のような“信念・信条”が憲法上保護に値するのか、という点であり*8、加えて、そもそも上告人側が(おそらく)主張していないであろう“信念・信条”の内容を忖度して結論を導こうとしている点についても問題とされる余地はあるように思われる*9


ゆえに、これだけでは補足意見に対抗するには力不足なのかもしれない。


だが、以下の説示についてはどうだろうか。


藤田裁判官は、「公務員が全体の奉仕者であることから、その基本的人権にそれなりの内在的制約が伴うこと自体は、いうまでもなくこれを否定することができない」ということを認めつつ、次のように述べる。

「ただ、逆に、「全体の奉仕者」であるということからして当然に、公務員はその基本的人権につき如何なる制限をも甘受すべきである、といったレヴェルの一般論により、具体的なケースにおける権利制限の可否を決めることができないことも、また明らかである。本件の場合にも、ピアノ伴奏を命じる校長の職務命令によって達せられようとしている公共の利益の具体的な内容は何かが問われなければならず、そのような利益と上記に見たようなものとしての上告人の「思想及び良心」の保護の必要との間で、慎重な考量がなされなければならないものと考える。」
(14頁)

そして、さらに「慎重な考量」のプロセスとして、

「学校行政の究極的目的が「子供の教育を受ける利益の達成」でなければならないことは、自明の事柄であって、それ自体は極めて重要な公共の利益であるが、そのことから直接に、音楽教師に対し入学式において「君が代」のピアノ伴奏をすることを強制しなければならないという結論が導き出せるわけではない。本件の場合、「公共の利益の達成」は、いわば、「子供の教育を受ける利益の達成」という究極の(一般的・抽象的な)目的のために、「入学式における『君が代』斉唱の指導」という中間目的が(学習指導要領により)設定され、それを実現するために、いわば、「入学式における秩序・紀律」及び「(組織決定を遂行するための)校長の指揮権の確保」を具体的な目的とした「『君が代』のピアノ伴奏をすること」という職務命令が発せられるという構造によって行われることとされているのである。そして、仮に上記の中間目的が承認されたとしても、そのことが当然に「『君が代』のピアノ伴奏を強制すること」の不可欠性を導くものでもない。」(14-15頁)

と述べられ、①「入学式進行における秩序・紀律」及び②「校長の指揮権の確保」という具体的な目的との関係における考量の重要性を説かれているのである。


このような論旨は、これまでに紹介した多数意見や補足意見の論理的飛躍を鋭く指弾するものであり、本判決を冒頭から読んでいる間に感じたモヤモヤを晴らすだけの効果を持っているものといえよう。


藤田裁判官は、上記①について、

「校長は、このような不作為を充分に予測できたのであり、現にそのような事態に備えて用意しておいたテープによる伴奏が行われることによって、基本的には問題無く式は進行している」(15頁)

ことを指摘し、ピアノを伴奏しなかったことは、所詮参列者が感じる「違和感」程度のものに過ぎない、としているし、音楽教諭がピアノ伴奏をすることについても、

「他者をもって代えることのできない職務の中枢を成すものであるといえるか否かには、なお疑問が残る」(16頁)

として、事実評価の側面において、多数意見とは大きく異なる判断を下しているが、仮に多数意見と同様の事実評価を前提にしたとしても、上記のような「中間目的」を設定する限りにおいては、「基本的人権の制約要因たる公共の利益」との関係で、本件職務命令を違憲・違法とする余地を残せることになり、「余りにも観念的・抽象的に過ぎる」多数意見等に比べると、より実態に即した納得感のある判断をなし得るように思われる。


藤田裁判官が最後に述べられた、

「本件において本来問題とされるべき上告人の「思想及び良心」とは正確にどのような内容のものであるのかについて、更に詳細な検討を加える必要があり、また、そうして確定された内容の「思想及び良心」の自由とその制約要因としての公共の福祉ないし公共の利益との間での考量については、本件事案の内容に即した、より詳細かつ具体的な検討がなされるべきである」(17頁)

という説示(結論:破棄差戻)こそが、本件多数意見に対するもっとも的を射た批判のように思えてならない。


なお、筆者の個人的な感想としては、本件における職務命令そのものに違憲性は認められないものの、「命令違反」に照らした処分として「戒告」という内容が適切なものだったかどうかについては、疑問に感じるところもままあるから*10、結論としては懲戒処分の適法性に的を絞って差戻審理させる、という手もあったのではないかと思っているのだが*11、いずれにせよ、本判決が、今後同種の行為を行った教諭が登場してきた時に「戒告以上の重い処分」をなしうることまで許容するものではない、ということだけは、しっかりと意識しておく必要があるのではないか、と思っている*12



“秩序”というのは、単に上から押し付けたことをやらせるだけで保てるものではないし、それが“教育の場における秩序”ともなればなおさらだ。


そのことを踏まえた上で、“健全なバランス感覚”をもってことの当否を判断するならば、単なる“命令違反”で懲戒処分を乱発することの愚かさに誰もが気が付くはずだし、そのような乱発には自ずから「違法」の推定が働くことになろう。



以上、これは決して“学校”という特殊な環境下にのみあてはまる問題ではない、ということを付言して、本エントリーの結びとしたい。

*1:本件では、音楽教諭が4月1日に着任した直後(4月6日)に伴奏を命じられていることから、“一種の踏み絵”だったのではないか、という後味の悪さは残るが、だからといって命令違反が正当化されるものではないだろう。

*2:H16(行ツ)第328号・戒告処分取消請求事件

*3:なお、最高裁は、上記結論を導くに際し、最大判昭和31年7月4日(謝罪広告事件)、最大判昭和49年11月6日(猿払事件)、最大判昭和51年5月21日(岩手教組事件)といった判決を引用している。

*4:単に軍隊的な整然さを追及することだけが教育に良い影響をもたらす、という発想が正しくないということは、誰しもが知っていることのはずである。

*5:上告人が、「入学式で「君が代」を演奏するな」と主張していたのであれば、上記のように解する余地もあるが、そのような事実は認定されていない。

*6:これは後述する藤田裁判官の反対意見において指摘されている視点である。

*7:そのような事実が存在したのかどうかについては、多数意見においても本補足意見においても明確には述べられていない。

*8:反対意見においては、「自由主義個人主義の見地から、それなりに評価し得るもの」とされているが、このような発想が憲法上正面から保護されるとなると、他にも似たような問題が多数“憲法訴訟”として登場しうることになり(筆者自身はそのような動きも決して否定すべきではないと思っているが)、19条の絶対的保障の趣旨を鑑みると、上記の理は、一種の“インフレ化”現象をもたらすものとして認めがたい、という反対説も沸きあがってくることであろう。

*9:大体この種の訴訟は、どうしても背景に特定のイデオロギーが付きまとうもので、本件でも「「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており云々・・・」という主張がなされている。そのような思想の是非はともかく、こと訴訟の場においてそのような主張をなすことが、判決を下す側に特定のバイアスを抱かせ、相手方に“付け入る隙”を与えることは否めないのであって、上告側代理人としては、藤田裁判官に指摘される前に、上記のような主張をしておくべきだったのではないか、と思えてならない。少なくとも「雅楽を基本にしながらドイツ和声を付けているという音楽的に不適切な「君が代」を平均律のピアノという不適切な方法で演奏することは音楽家としても教育者としてもできないという思想及び良心を有する」(5頁)という苦し紛れな主張をするよりは有意義だったはずだ。

*10:着任間もない教諭に対して本件のような処分を行うこと自体に無理があるし、更に言えば、国歌斉唱が慣例になっているような学校に音楽教諭を赴任させたこと自体、何らかの意図を感じざるを得ない。

*11:単に懲戒処分の適法性を論難するだけでは上告理由にならないので、最高裁がこの点について判断しなかったことそれ自体を責めることはできないのだが。

*12:「戒告」だからこそ処分が取り消されずに済んだ、というのも本判決の一つの読み方だと思う。

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