時代錯誤風味な東京高裁決定

「米投資ファンドスティール・パートナーズブルドッグソースの買収防衛策の差し止めを求めた仮処分申請の即時抗告審で、東京高裁は9日、申し立てを却下した東京地裁決定を支持、スティールの抗告を棄却した。藤村啓裁判長は、スティールを「濫用(らんよう)的買収者」と初めて認定。今後の日本企業買収にも影響しそうだ。」(日本経済新聞2007年7月10日付朝刊・第1面)

最初記事の要旨を見たときは、「小糸対ピケンズ」の時代を髣髴させるような過激な決定だ・・・と絶句したものだ。


掲載されている決定要旨を見ると、

「株式会社は、理念的には企業価値を可能な限り最大化してそれを株主に分配するための営利組織であるが、同時にそのような株式会社も単独で営利追求活動ができるわけではなく、一個の社会的存在であり、対内的には従業員を抱え、対外的には取引先、消費者等との経済的な活動を通じて利益を獲得している存在であることは明らかであるから、従業員、取引先など多種多様な利害関係人(ステークホルダー)との不可分な関係を視野に入れた上で企業価値を高めていくべきものであり、企業価値について、専ら株主利益のみを考慮すれば足りるという考え方には限界があり採用することができない。」(同上・13面)

などというくだりもあって、このあたりには大いに共感できるのであるが、地裁決定から間もない時期に出された高裁の決定が「濫用的買収者」認定をしてしまった、というのは、やはり勇み足というべきではないだろうか。


日経紙の論調には、“スティール”と他の友好的なファンドは異なる、といったものもあるが、友好的に交渉を行おうとしてもうまくいかないから最後は強硬手段に出ざるを得なくなるわけで、どんなファンドでも、採る手段によっては「濫用的買収者」のレッテルを貼られるおそれがあるのは間違いない。


もちろん、筆者は、通常の大会社に群がる株主の多くは、ある種の博徒みたいなものだと思っているし、そういう輩が“会社の支配権”なるものを振りかざして、従業員やその他のステークホルダーの犠牲の上に利益を得ようとすることは、浅ましいことこの上ない(あるいはおこがましい行為だ)、と思っているのであるが、だからといって、それを排除すればたる、という話でもあるまい*1


いずれにせよ、所詮下級審決定、とはいえないほどこの決定が持つ意味は大きいように思う。


悪しき持ち合い関係の復活の風潮といい、“外資系ファンド”に対する風当たりの強さといい、時計の針を逆に回したかのような最近の流れに、いささか戸惑いを感じているのは筆者だけだろうか。

*1:本来は、株主に力を与えた分、従業者や取引先その他のステークホルダーにも同等の力を与えて、双方の言い分をぶつけ合わせることで解決すべき問題だと思っている。

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