「猿払」大法廷判決は克服されるのか。

憲法学者は概して最高裁判決の規範に対して批判的なものだが、中でも通称「猿払事件」の大法廷判決(最大判昭和49年11月6日)*1に対しては、従来から厳しい批判が向けられてきた。


公務員の政治的行為を広汎かつ包括的に制限する国家公務員法及び人事院規則の合憲性を、

「国公法102条1項及び規則による公務員に対する政治的行為の禁止が右の合理的で必要やむをえない限度にとどまるものか否かを判断するにあたつては、禁止の目的、、この目的と禁止される政治的行為との関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の三点から検討することが必要である。」
「そこで、まず、禁止の目的及びこの目的と禁止される行為との関連性について考えると、もし公務員の政治的行為のすべてが自由に放任されるときは、おのずから公務員の政治的中立性が損われ、ためにその職務の遂行ひいてはその属する行政機関の公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあり、行政の中立的運営に対する国民の信頼が損われることを免れない。また、公務員の右のような党派的偏向は、逆に政治的党派の行政への不当な介入を容易にし、行政の中立的運営が歪められる可能性が一層増大するばかりでなく、そのような傾向が拡大すれば、本来政治的中立を保ちつつ一体となつて国民全体に奉仕すべき責務を負う行政組織の内部に深刻な政治的対立を醸成し、そのため行政の能率的で安定した運営は阻害され、ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の忠実な遂行にも重大な支障をきたすおそれがあり、このようなおそれは行政組織の規模の大きさに比例して拡大すべく、かくては、もはや組織の内部規律のみによつてはその弊害を防止することができない事態に立ち至るのである。したがつて、このような弊害の発生を防止し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するため、公務員の政治的中立性を損うおそれのある政治的行為を禁止することは、まさしく憲法の要請に応え、公務員を含む国民全体の共同利益を擁護するための措置にほかならないのであつて、その目的は正当なものというべきである。」
「また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。」
「次に、利益の均衡の点について考えてみると、民主主義国家においては、できる限り多数の国民の参加によつて政治が行われることが国民全体にとつて重要な利益であることはいうまでもないのであるから、公務員が全体の奉仕者であることの一面のみを強調するあまり、ひとしく国民の一員である公務員の政治的行為を禁止することによつて右の利益が失われることとなる消極面を軽視することがあつてはならない。しかしながら、公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは、単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約に過ぎず、かつ、国公法102条1項及び規則の定める行動類型以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではなく、他面、禁止により得られる利益は、公務員の政治的中立性を維持し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の共同利益なのであるから、得られる利益は、失われる利益に比してさらに重要なものというべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない。」

と、規制目的との「合理的な関連性」や、「国民全体の共同利益」というマジックワードを咬ませた比較衡量を肯定したことに加え、「勤務時間外に、国の施設や自己の職務をを利用することなく」行った行為であるにもかかわらず、

「本件における被告人の行為は、衆議院議員選挙に際して、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布したものであつて、その行為は、具体的な選挙における特定政党のためにする直接かつ積極的な支援活動であり、政治的偏向の強い典型的な行為というのほかなく、このような行為を放任することによる弊害は、軽微なものであるとはいえない。のみならず、かりに特定の政治的行為を行う者が一地方の一公務員に限られ、ために右にいう弊害が一見軽微なものであるとしても、特に国家公務員については、その所属する行政組織の機構の多くは広範囲にわたるものであるから、そのような行為が累積されることによつて現出する事態を軽視し、その弊害を過小に評価することがあつてはならない。」

と当該法令の処罰規定適用を肯定した点などが批判を受けていたと記憶している。


もう随分と古い時代の判決になってしまったこともあって、当時の時代背景ゆえの特殊性等を指摘する見解もあったのだが、幸か不幸か、同種の事例(政治的行為を行ったことを理由とする国家公務員法違反罪)の起訴がしばらくなかったこともあったようで、結果としては、長年にわたり、前記大法廷判決が温存される形になってきた。


だが、今回、東京高裁が出した判決は、もしかすると山を動かすかもしれない・・・そんな雰囲気を感じさせてくれる。


日経紙の解説*2によると、東京高裁は,

「改めて同法の規定について再検討し,禁止目的については最高裁判例を踏襲する一方で、他の2点については大きく異なる判断を示した。」
「高裁は猿払判決当時は「冷戦下で政治体制を巡り,社会情勢が不安定だった」と分析。戦前からの「お上」意識が残るなど個々の職務内容や地位を区別せず公務員が一体とみられており,政治的行為の影響も広くとらえる状況にあったとした。しかし冷戦が収束し,国民の意識が変化したとし「公務員の職種・職務権限などを区別しなかった猿払判決はいささか疑問がある」と指摘。さらにインターネットの普及などに触れ,「表現の自由がより重要な権利という認識が深められている」ので,より重視すべきだと強調。猿払判決と同じ基準で判断できないとし,被告に無罪を導いた。」

ということで、従来の学説上の問題意識を踏まえ,(法令・規則そのものを違憲とまでは断じなかったものの)その適用段階において憲法違反を指摘して無罪判決を導いた、ということである*3


元々、この事件は地裁判決の段階でも「執行猶予付き罰金刑」が言い渡されるなど,実体法理論上も刑事政策上も相当悩ましい事件だったようだから、高裁できっぱりと適用違憲が宣言されたのも,何となく分からないではない。


だが,先例に対して比較的忠実な姿勢を貫いてきた東京高裁*4が方針を転換した,というのはやはり大きなトピックなわけで、これに対して最高裁がどのように応えるか、が今後の大きな焦点になってくるように思われる。


泉コート的なドラスティックさが加速しているようにも見えてしまう近年の最高裁であれば、高裁をさらに超えた新しい規範の定立にも期待したくなるわけだが、果たしてどうなのだろう*5


今からX年後が楽しみである。

*1:http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/88AD78DB1296DA3949256A850030AB17.pdf

*2:2010年3月29日付夕刊・第15面。

*3:「法体系全体から見た場合,様々な矛盾がある」と中山隆夫裁判長による「付言」も付いたとのこと。この事件に対する高裁の思い入れの強さが分かるというものだ。

*4:最近全国各地の高裁で違憲と明言する判決が続出している「一票の格差」問題でも、東京高裁は相対的に“保守的な”姿勢を保ち続けているように見受けられる。

*5:あくまで適用段階での違憲論が争点になる、ということであれば、「(大法廷判決とは)事案を異にする」として検察官サイドの上告を棄却する筋になってくると思うのだが・・・。

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