“真打ち”的評釈、再び〜自炊代行訴訟控訴審判決をめぐって

一昨年に出された「自炊代行訴訟」の第一審判決をめぐって、北大の田村善之教授が書かれた評釈を紹介したのは、ちょうど1年ほど前のことであった*1

自炊代行業者=複製主体、という認定の下、ばっさりと業者側の請求を退けた地裁判決に対して、

「利用行為の主体論だけで最終判断をしたり、利用行為主体論の判断をそのまま援用するのではなく、30条1項の趣旨に則した判断をなす必要がある」

と指摘し、政策的考慮も加味した上で、

「30条1項の「その使用する者が複製する者」という要件を活用して、裁断済みの書籍の保管や転用はせず、注文の都度、顧客からの宅送ないし直送を要するなど、相応に非効率なビジネス・モデルを採用する自炊代行業者に限り、同項の私的複製の範囲内と認めて著作権侵害の責任を免らしめる、という措置をとることがありえよう。」

と、地裁判決が示した結論に真正面から向き合おうとした田村教授の評釈*2の反響は大きく、それを紹介したこのブログの記事も、ここ最近ではなかなかなかったレベルのアクセス数、ブックマーク数を記録することになった。

そして、昨年、自炊代行業者敗訴、という結論を再び示した知財高裁の控訴審判決*3に対し、またしても田村教授が書かれた強烈な評釈がウエストローのHPに掲載されている*4

以下では、前回とはまた一味異なる、この評釈をご紹介することにしたい。

控訴審判決」に対するアプローチ

地裁判決以降、様々な有識者が結論への賛否を表明し、様々な見解を発表したこともあり、知財高裁が世に出る直前まで、「自炊代行業者」のサービスの適法性をめぐる議論はかなり盛り上がっていた。

しかし、昨年、知財高裁が、地裁判決をほぼ是認した上で、法30条1項についても原告側の主張をほぼ丸のみする、というあまりに“保守的”な判断を示したがゆえに、議論は萎み気味、という印象があるし、「それまでの議論は何だったの・・・」という脱力感に駆られている人も決して少なくないのではなかろうか。

田村教授の今回の評釈の書き出しにおいても、

「今回の知財高裁判決は、一審判決を維持したものであり、本件において著作権侵害を肯定することの問題点については、地裁判決に対する本コラム欄における筆者のコメントがそのまま妥当するので、子細はそちらに譲る」

と書かれており、知財高裁判決に対する一般的な理解が、ものの見事に反映されている。

だが、脚注において、

「筆者は、控訴人の代理人からの要請に基づいて、控訴人側から書証としていわゆる私鑑定を提出している。」(脚注11)

と、自らの立場を明らかにされた田村教授のコメントは、冒頭の↑だけでは終わらなかった*5

「ここでは、二点ほど、二つの地裁判決に比して本件知財高裁判決が特徴的であったところについて論評しておくことにしたい。一点目は、どちらかというと論理の組み立て方の問題であるが、業者を複製の主体と認定する際に依拠した法理に関するものであり、二点目は、より注目に値するものとして、私的複製に関して著作権を制限する著作権法30条1項の趣旨が説かれたくだりに関するものである。」

と、ささやかながらも知財高裁が「変えた」ところに、焦点が当てられることになったのである。

利用行為主体論について

田村教授は、まず、

知財高裁判決の一つの特徴としては、ユーザーではなく業者を複製の主体であると判断するに際して、いわゆる「枢要な行為」論を用いていないこと

に着目し、

「最終的に複製を引き起こす指示をユーザーがネットを介して送信していた前掲最判[ロクラク]と異なり、物理的な複製のプロセスを全て業者が行っていた本件においては、あえて「枢要な行為」論に基づかずとも、複製主体を業者と認定することができる。その場合、じつは複製主体は業者でないと主張する者のほうが規範的な主体論に寄り掛からざるを得ないということなのであろう。その意味で、本件地裁判決よりも、知財高裁判決のほうが事案適合的な論理を示しているといえそうである

と、知財高裁の論理に理解を示した。

この点に関して、自分は、知財高裁判決が「枢要な行為」という文言を使わなかったことは評価しつつも、控訴人の主張に応答した当てはめの部分で、“「物理的に複製過程に関与しているかどうか」という問題と「規範的に管理・支配しているといえるかどうか」という問題を、ゴッチャにした”ように思えるところに、凄く違和感があり、ブログの記事*6でも批判したところだったのだが、そこは、あくまで「論理の組み立て」という観点から、田村教授は知財高裁の姿勢を支持したのだと思われる*7

また、田村教授は続けて、

「もっとも、複製主体が業者で(も)あると認定されたからといって、それとは別に著作権法30条1項の適用の範囲の問題として、そのような行為にまで同項の著作権制限の効果が及ぶのかということを吟味する必要性は失われないことは、地裁判決に対する本コラム欄における論評において明らかにしたとおりである。そして、本件控訴審判決も、複製主体を業者と判断しただけでただちに結論に至るのではなく、次に紹介するように、別途、30条1項の適否を論じており、その結論はともかく、議論の進め方としてはより明晰なものを提示していると評価することができる。」

と評されている。

本判決は、結果的に30条1項の適用を、極めて形式的な理由で退けているから、「単に論じる章を分けた」ということ以上の意義はないようにも思われるのだが、ここも「議論の進め方としては」評価する余地はある、ということなのだろう。

著作権法30条1項(私的複製)の趣旨

さて、既に紹介したくだりからもうかがえるように、田村教授は、知財高裁判決が、著作権法30条1項の趣旨を「明言」したことに対して、特に高い評価を与えている。

確かに、30条1項の趣旨をまともに議論することなく、バッサリと主体論だけで事実上議論を打ち止めにしてしまった地裁判決に比べると、被告側が重要な主張、として掲げていた“争点”に対し、知財高裁がきちんと判断を示した、ということは、評価されてよいのかもしれない。

ただ、当然のことながら、田村教授も、知財高裁が示した「30条1項の趣旨」に対しては、到底納得されてはいないようで、控訴人(被告)の(田村教授の私鑑定等を元に出されたと思われる)主張と、知財高裁の判断を比較した上で、以下のように述べられている。

「技術的、社会的な環境の変化に伴い複製手段が普及したり、新たなものが登場したりするたびに、従前に比して、著作権者の権益が浸食されているという見方を重視するのであれば、本判決のように30条1項の趣旨を捉えることになるのであろう。しかし、そのように理解された30条1項は、著作権者の権益を(ほとんど)害さない範囲でお目溢しが認められる例外的な空間を特定する条文に堕することになる。他方で、30条1項に私人の自由を確保するという積極的な意義を認める場合には、同項は単に零細的な例外的利用に対するお目溢しを施すものではなく、利用者の自由という立派な利益を(も)保護する規定であるということになるから、ひとり権利者側の利益のみを強調する解釈態度が許されることにはならず、それと対抗する利益としての私人の自由との衡量という観点が視野に入ってくることになる。」
「かつて、20世紀の半ばまでは、出版、レコード、映画などのように一定の投下資本をなす者だけが複製技術の恩恵を享受し得た時代には、複製禁止権を中心に据える著作権法の規制は実質的には業者の規制法であって、私人の自由に対する過度の規制にはなりえなかった。それが時代とともに複製技術が私人に普及するに連れ、著作権の規制の意味が変容し、複製禁止権は次第に私人の自由に対する過剰な規制へと変質する契機を孕むことになる。そのような時代における著作権法30条1項には、著作権者の利益と私人の自由の均衡点を、過度に前者を偏重するものとならないようにする砦としての意義を認めるべきではないかと思われる。かかる砦としての30条1項の意義を発揮させるためには、著作権者の権益のみを強調する本件知財高裁判決のような理解ではなく、主体的な私人の自己決定を対抗利益として掲げる理解を採用することが要請されよう。

かねてからこのブログでも何度か書いているように、自分の30条1項に対する考え方は、上記の考え方に極めて近いし、(「立法論」を待つまでもなく)「著作権者の権益と利用者の自由との利益衡量のための規定」として、30条1項を解釈すべき、という上記のような考え方は、もはや決してレアな考え方ではないと思う。

にもかかわらず、今回、前時代的な思考態度しか示せなかった知財高裁はどうなのか・・・

穏やかな筆致ゆえ、かえって、田村教授のコメントの「痛烈さ」が際立っているように思えてならない。

結論に向けられたコメント

田村教授は、

「このように対抗利益を掲げたところで、二つの相対する利益の均衡点をどこに設定するのかということが一義的に決まるものではない。」

と留保しつつも、

「自炊代行業に関する決め手は、現在、私人が蔵書としている何十億、何百億にも上ると思われる書籍の著作者のうち、現実に自炊代行に対して権利行使をなすことを欲している者はごく僅かに止まり、権利者の所在不明の孤児著作物の状態にあるものを代表格として、およそ権利行使に無関心な著作権者のものであって、その著作物に関して自炊代行を認めても著作権者の利益が損なわれることはないものが大半を占めているのではないかという現実にある。しかも、自炊対象の書籍をユーザーが調達することを要求するなど、一定の非効率的なモデルを採用する自炊代行業のみを許容することにすれば、電子書籍市場から収益を得たいと考えている一部の著作権者の利益は、非効率的な自炊代行業に競争上優位に立つことによって十分に守られると考えられる。」

「そうだとすれば、軍配は、本判決と異なり、自炊代行業を適法とする方に上がるように思われる。

と本判決の結論に、明確に反対している。

地裁判決に対する評釈の中で述べられていた内容と、概ね同じ筋の議論であり、多くの利用者にとっての“自炊代行”というサービスの意義を考えるならば、ここでも、述べられていることに異論を唱える余地はほとんどない。


難しいのは、本件が「孤児著作物の自炊代行をめぐって業者が訴えられた事例」ではなく、「明確に権利を主張する意思がある著作権者が業者を訴えた事例」ということで、そうなってくると、「著作権者の利益が損なわれることがない」という一般論は使いづらくなり、「個々の著作権者の損なわれる利益」よりももっと多くの「ユーザー側の利益」があることを主張立証できない限り、裁判所の理解を得ることも難しくなる*8、ということで、本件で多くの有識者の意見と、裁判所の判断のアプローチがなかなか噛み合わない*9のも、その辺に原因があるのだろう*10

ただ、そうはいっても、客観的な利益衡量を踏まえて、裁判所が何らかの判断を下す余地はまだあるはずで、「地裁判決と比べると、考え方の枠組みが、少しだけ被告側の主張に応えたものになりつつある」ということが、今回紹介した評釈でも指摘されているだけに、今後、裁判所において、田村教授が投げかけた問題意識にしっかり応えられるような、より納得感のある判断が示されることを、筆者としても望むところである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20140107/1389284069

*2:当時の記事は、http://www.westlawjapan.com/column-law/2014/140106/に掲載されている。

*3:その概要については、http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20141025/1414434412を参照のこと。

*4:本文は、http://www.westlawjapan.com/column-law/2015/150105/に掲載。

*5:ちなみに、控訴審における被告側の主張に、前回、田村教授がウエストローに掲載された地裁判決評釈の内容や、田村善之「日本の著作権法のリフォーム論―デジタル化時代・インターネット時代の『構造的課題』の克服に向けて―」知的財産法政策学研究44号89〜96頁(2014年)(http://www.juris.hokudai.ac.jp/riilp/journals/%e7%ac%ac44%e5%8f%b7%ef%bc%882014%e5%b9%b43%e6%9c%88%ef%bc%89/)の内容がかなり反映されていることは、判決文からも読み取ることができる。

*6:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20141025/1414434412参照。

*7:なお、田村評釈の脚注8では、「もっとも、そのような規範的主体論において重視された要素が、結局は、ユーザーが物理的な複製過程に関与していないことを重視するものであって、これでは物理的な主体論と変わるところがなく、規範的な主体論を持ち出した意味はないのではないかという批判はありえよう」というコメントとともに、本ブログ(前掲10月25日付記事)を参照引用していただいた。この場を借りて御礼申し上げたい。

*8:さらに言えば、仮にそれを主張立証したとして、今の著作権法の建付けの下で、それをどう抗弁として使うことができるのか、ということがまた問題になってくる。

*9:もっというと、それは原告側と被告側の主張の噛み合わなさにも、如実に現れている。

*10:冷静に考えれば、本件で業者側が最高裁まで行って負けても、あくまで「訴えた原告との関係で」敗訴しただけであり、「自炊代行」というサービスが常に違法性を帯びるわけではない。著作権者が同意していれば、適法に複製できるのは当然のことだし、その「同意」は明示のものに限られず、黙示のものであったとしても、差し支えない。田村教授が指摘するとおり、自分の本が「自炊」されることに目くじらを立てる著作権者なんて、現実にはほとんどいないわけで(あくまで、購入した人が、保管、閲読の便宜のために電子化するだけで、本の売れ行きには基本的に影響しない、という前提での話だが)、ここは、自ら積極的に「取扱禁止」の意思表示をしない限り、「黙示の同意」あり、と解釈しても違和感のない場面である。したがって、そんなに悲観しなくても良いのではないか、という気も最近ではしているところなのだが、できることなら、裁判所でも、時代の変化と客観的な利益衡量を踏まえて、もう一歩踏み込んだ判断をしてほしいな、と思うところである。

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