「大局的判断」かそれとも素人的発想か?(後編)〜ロクラク2事件最高裁判決〜

「まねきTV」事件に続く破棄差戻判決、として、ユーザーサイドにはため息をもって迎えられた「ロクラク2」の最高裁第一小法廷判決。

「まねきTV」に比べれば、元々サービス事業者側に不利な要素が多々あった事件で*1知財高裁でサプライズ的逆転勝訴となったとはいっても、“上告されれば予断を許さない”という状況ではあったから、結果自体にはそんなに意外感はない。

ただ、前編(http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20110121/1295756295)で述べたのと同じく、最高裁の判断の仕方にはちょっと引っかかりが残るのも事実。

以下、今回の判決の多数意見と補足意見を追ってみていくことにしたい。

最一小判平成23年1月20日(H21(受)第788号)*2

本件の事案の概要は、

「放送事業者である上告人らが,「ロクラク2」という名称のインターネット通信機能を有するハードディスクレコーダー(以下「ロクラク2」という。)を用いたサービスを提供する被上告人に対し,同サービスは各上告人が制作した著作物である放送番組及び各上告人が行う放送に係る音又は影像(以下,放送番組及び放送に係る音又は影像を併せて「放送番組等」という。)についての複製権(著作権法21条,98条)を侵害するなどと主張して,放送番組等の複製の差止め,損害賠償の支払等を求める事案」

と整理することができる。

そして、サービスの構成としては、

(1)「親機」と「子機」で構成される「ロクラク2」を、被上告人が利用者に対して製造、販売する。
(2)利用者は、「ロクラク2」の親機と子機をインターネットを介して1対1で対応させ、子機ロクラクから親機ロクラクに対して録画指示を出し、親機ロクラクで録画された放送番組等のデータの送信を受けて子機ロクラクで視聴することができる。
(3)被上告人(株式会社日本デジタル家電)は、初期登録料を3150円、レンタル料金を月額6825円ないし8925円として、親機ロクラク及び子機ロクラクを併せて貸与するサービスや、子機ロクラクを販売し親機ロクラクのみを貸与するサービスを行っていた。

といったところまでが事実審段階で認定されており、この種の「間接侵害」型事案でよく問題となる「複製を行う機器(本件では親機ロクラク)の管理状況」については、明確な認定がなされていない状況であった。

ちょうど2年前の1月に出された本件の知財高裁判決は、このような状況の下で、放送局側の請求を棄却し、サービス事業者を勝たせる、という判断を下したわけだが、それが驚きをもって迎えられた最大の理由は、仮処分段階から一貫して争われていた「親機ロクラクの設置状況」について、

「当該設置状況については、利用者が親機ロクラクを自己の管理・支配する日本国内の場所(留守宅等)に設置することを選択した場合(以下「利用者が親機ロクラクを自己管理する場合」という。)を除き、すべて控訴人の管理・支配する場所に設置されているものと仮定して検討することとする。」(控訴審判決25頁)*3

と大胆な割り切りをした上で、

「被上告人は本件サービスの利用者が複製を容易にするための環境を提供しているにすぎず、被上告人において、本件番組等の複製をしているとはいえない」

としたところにある。

当時のエントリー*4にも書いたように、

「これまでの裁判例では、サービス事業者のユーザーへの“貢献”がどこに向けられているのか、をあまり吟味しないまま、“単に関与して利益を得ているから侵害主体になる”と判断する傾向が強かった」にもかかわらず、知財高裁判決では、「単なる「前提(環境整備)」に向けられた行為や対価と、「複製」に向けられる行為や対価をしっかり切り分けて事実を評価し、判断を下した

という点は、今思い返しても高く評価されて然るべき点だったといえるだろう。

だが、今回、最高裁は、極めてラフな論理(後述)で、知財高裁の判断をひっくり返した。

「放送番組等の複製物を取得することを可能にするサービスにおいて,サービスを提供する者(以下「サービス提供者」という。)が,その管理,支配下において,テレビアンテナで受信した放送を複製の機能を有する機器(以下「複製機器」という。)に入力していて,当該複製機器に録画の指示がされると放送番組等の複製が自動的に行われる場合には,その録画の指示を当該サービスの利用者がするものであっても,サービス提供者はその複製の主体であると解するのが相当である。すなわち,複製の主体の判断に当たっては,複製の対象,方法,複製への関与の内容,程度等の諸要素を考慮して,誰が当該著作物の複製をしているといえるかを判断するのが相当であるところ,上記の場合,サービス提供者は,単に複製を容易にするための環境等を整備しているにとどまらず,その管理,支配下において,放送を受信して複製機器に対して放送番組等に係る情報を入力するという,複製機器を用いた放送番組等の複製の実現における枢要な行為をしており,複製時におけるサービス提供者の上記各行為がなければ,当該サービスの利用者が録画の指示をしても,放送番組等の複製をすることはおよそ不可能なのであり,サービス提供者を複製の主体というに十分であるからである。」(3-4頁)

そしてその結果、

本件サービスにおける親機ロクラクの管理状況等を認定することなく,親機ロクラクが被上告人の管理,支配する場所に設置されていたとしても本件番組等の複製をしているのは被上告人とはいえないとして上告人らの請求を棄却した原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決は破棄を免れない。」(4頁)

ということになり、

上記の機器の管理状況等について更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。」

という結論に至ったのである。

一応、侵害の成否についての審理を指示する差戻し、の形をとっているだけに、「まねきTV」に比べればサービス事業者側にまだ巻き返すチャンスがあるようにも見えるが、「親機ロクラクの管理状況」をめぐる主張立証については、東京地裁での仮処分、本訴第一審において、被上告人が当時の清水コートから手厳しい批判を受けていたところでもあり*5、ここが争点となれば、被上告人側にまず勝ち目はない、と言わざるを得ないだろう。

かくして、歴史的大逆転から2年、「間接侵害」型紛争をめぐる判断は元のさやに納まることになったのである。

「カラオケ法理」は進化したのか?

さて、今回の判決に対しては、「間接侵害」型著作権紛争における侵害主体の認定について、

最高裁が、いわゆる“カラオケ”法理を再構築した」

という評価もなされているところである*6

これは、判決の多数意見に続き、金築誠志裁判長が「補足意見」として、従前のいわゆる“カラオケ法理”への批判を意識した意見を展開されているがゆえ、であろう。

金築裁判長は、最三小判昭和63年3月15日(民集42巻3号199頁、クラブキャッツアイ事件)以来の「カラオケ法理」の“現代的意義”について、以下のように力説されている。

「同法理(注:カラオケ法理)については,その法的根拠が明らかでなく,要件が曖昧で適用範囲が不明確であるなどとする批判があるようである。しかし,著作権法21条以下に規定された「複製」,「上演」,「展示」,「頒布」等の行為の主体を判断するに当たっては,もちろん法律の文言の通常の意味からかけ離れた解釈は避けるべきであるが,単に物理的,自然的に観察するだけで足りるものではなく,社会的,経済的側面をも含め総合的に観察すべきものであって,このことは,著作物の利用が社会的,経済的側面を持つ行為であることからすれば,法的判断として当然のことであると思う。このように,「カラオケ法理」は,法概念の規範的解釈として,一般的な法解釈の手法の一つにすぎないのであり,これを何か特殊な法理論であるかのようにみなすのは適当ではないと思われる。したがって,考慮されるべき要素も,行為類型によって変わり得るのであり,行為に対する管理,支配と利益の帰属という二要素を固定的なものと考えるべきではない。この二要素は,社会的,経済的な観点から行為の主体を検討する際に,多くの場合,重要な要素であるというにとどまる。にもかかわらず,固定的な要件を持つ独自の法理であるかのように一人歩きしているとすれば,その点にこそ,「カラオケ法理」について反省すべきところがあるのではないかと思う。」(5-6頁)

このような“カラオケ法理”の解釈、というか再評価・再構成自体は、決して悪いことではないと思う。

「カラオケスナックでの演奏行為」という、(現代において紛争になっている事例の当事者から見れば)ある種の特殊な場面で定立された要件をそのまま現代の紛争にあてはめようとするから問題になるのであって、これを上記補足意見のように柔軟に再構成して理解すれば、決しておかしな話ではない。

ただ、引っかかるとすれば、その先で述べられている内容だろうか。

「法廷意見が指摘するように,放送を受信して複製機器に放送番組等に係る情報を入力する行為がなければ,利用者が録画の指示をしても放送番組等の複製をすることはおよそ不可能なのであるから,放送の受信,入力の過程を誰が管理,支配しているかという点は,録画の主体の認定に関して極めて重要な意義を有するというべきである。したがって,本件録画の過程を物理的,自然的に観察する限りでも,原判決のように,録画の指示が利用者によってなされるという点にのみに重点を置くことは,相当ではないと思われる。」
「また,ロクラク2の機能からすると,これを利用して提供されるサービスは,わが国のテレビ放送を自宅等において直接受信できない海外居住者にとって利用価値が高いものであることは明らかであるが,そのような者にとって,受信可能地域に親機を設置し自己管理することは,手間や費用の点で必ずしも容易ではない場合が多いと考えられる。そうであるからこそ,この種の業態が成り立つのであって,親機の管理が持つ独自の社会的,経済的意義を軽視するのは相当ではない。本件システムを,単なる私的使用の集積とみることは,実態に沿わないものといわざるを得ない。」
「さらに,被上告人が提供するサービスは,環境,条件等の整備にとどまり,利用者の支払う料金はこれに対するものにすぎないとみることにも,疑問がある。本件で提供されているのは,テレビ放送の受信,録画に特化したサービスであって,被上告人の事業は放送されたテレビ番組なくしては成立し得ないものであり,利用者もテレビ番組を録画,視聴できるというサービスに対して料金を支払っていると評価するのが自然だからである。その意味で,著作権ないし著作隣接権利用による経済的利益の帰属も肯定できるように思う。もっとも,本件は,親機に対する管理,支配が認められれば,被上告人を本件録画の主体であると認定することができるから,上記利益の帰属に関する評価が,結論を左右するわけではない。」(6-7頁)

これだけ読むと、多数意見が用いた「枢要な行為を行った」という侵害主体認定基準は、「物理的、自然的観察」に基づく基準であり、従前のカラオケ法理で重視されてきた「社会的、経済的観察」からのアプローチによるまでもなく、被上告人は複製権侵害主体となる、ということになりそうである。

だが、本当にそうなのだろうか?

「複製の実現における枢要な行為を行ったか否か」

と複製主体性の判断基準として用いること自体には何ら異論はないが、「放送を受信して複製機器に対して放送番組等に係る情報を入力する」*7という行為が「複製の実現における枢要な行為」にあたる、と言われてしまうと、通常の人なら首を傾げてしまうだろう。

しかも、それが純粋な「物理的、自然的観察」による評価だ、と言われればなおさらそう思うに違いない。

「枢要な行為」該当性を判断するにあたって「社会的、経済的観察」を読み込んでいる*8、という前提に立たなければ、「アンテナ端子との接続」をもって「枢要な行為」とする判断は説明できないのではないかと思われる。

また、万が一、「物理的、自然的観察」だけで、「アンテナ端子との接続」行為を「枢要な行為」といえると仮定するとしても、それだけで「侵害主体性」を認定してよいのか?という問題は別途出てくる。

従来批判を浴びていた「カラオケ法理」でさえ、管理支配性と利益帰属、という両面から侵害主体性を吟味してきたのに、本判決が、知財高裁があれほど重視していた「環境、条件整備等に向けられた対価か、それとも著作権利用の対価か」という問題を全くスルーして*9、被上告人が侵害主体である、という結論を出して良いのか。それでは、カラオケ法理以上に権利保護強化に偏った規範になってしまうのではないか、といった批判は当然予想されるところだと思う*10

そして、前者の理解(「枢要な行為」該当性判断に「社会的、経済的観察」の観点を盛り込んでいる、という理解)に立てば、最高裁の判旨はあまりに不親切なものと言わざるを得ないし*11、後者の理解(「枢要な行為」該当性という基準が「物理的、自然的観察」の観点だけで導かれるものである、という理解)に立てば、最高裁のスタンスはこれまでの「カラオケ法理」をめぐる議論の蓄積をあまりに軽視し過ぎている、ということになり、いずれにせよ、最高裁の定立した規範が粗々に過ぎる、というそしりを免れえないのではないだろうか。

「カラオケ法理」に対する長年の研究者、実務家の議論が、「最高裁の判決」という形で一応実を結んだとはいえ、本判決の法理(仮に「ロクラク法理」とでも呼ぼうか)を「カラオケ法理の進化系」と位置付けるのは、あまりに時機尚早であるように思えるわけで、今後、同種事案で下級審(特に知財高裁)が、これを受けてどのような規範定立、あてはめを行うのか、というのが注目されるところである。

おわりに

脱“カラオケ法理”を狙った意図は伝わる半面、かえって後々解釈論が沸騰する余地を残してしまったように見える今回の判決。

本件も、「まねきTV」と同様、機器構成に着目したテクニカルな分析を離れて、「本質的に違法なサービスへの制裁(&実質的な権利侵害状態からの放送局の救済)」という“大局的”視点から判断を下した(それゆえに定立した規範の精緻性はかなりの部分犠牲になった)ものと理解すれば、一応納得できなくはない。

ただ、エントリーの前編でも記したように、

「「著作権法」という決して柔軟とはいえないルールを、目まぐるしい進歩を遂げる技術に対応させ、権利者・ユーザー双方にとっての最適解を導くために関係者が必死の綱引きをしてきた」

という状況を、最高裁がどこまで理解していたのだろうか。

少々勇み足の感はあったものの、

「技術の飛躍的進展に伴い,新たな商品開発やサービスが創生され,より利便性の高い製品が需用者の間に普及し,家電製品としての地位を確立していく過程を辿ることは技術革新の歴史を振り返れば明らかなところである。」(控訴審判決・32頁)

と高らかに言い切った知財高裁判決に、当時共感した人はかなりの数に上っただろう、と思うだけに、“素人的社会通念”に影響された、と言えなくもない今回の最高裁判決には残念な思いも残るところである。

*1:それゆえ、仮処分でも本訴第一審でも事業者側が敗訴していた。

*2:第一小法廷・金築誠志裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110120144645.pdf

*3:http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090128154308.pdf

*4:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20090226/1240120292

*5:「本件訴訟の当事者として,極めて不相当なものといわざるを得ない」とまで言われている。

*6:これを批判的な視点で捉える人もいれば、肯定的に捉える人もいる。それぞれ立場がある以上、評価が分かれるのは当然のことだろうが、自分としては、そういった「立場上のカテゴリカルな議論」を離れ、なるべく中立的な視点から解説できるよう試みたいと思っている。

*7:何だか大げさな表現になっているが、要は単に「付属するアンテナ接続ケーブルで,地上波アナログ放送のテレビアンテナ端子と親機ロクラクの背面のアンテナ入力端子を接続する」(第一審判決・51頁)という行為でしかない。

*8:本件サービスが「利用者に放送番組を録画転送させることを主目的としたもので、被上告人がそれに対する対価を受け取っているがゆえに、一見単なる環境整備のように見える「接続」行為であっても、「枢要な行為」となりうる、という説明になろうか。

*9:一応、金築裁判長が補足意見で言及しているものの、同裁判長の上記論旨によれば、多数意見ではその点は考慮されていない、ということになりそうである。

*10:金築補足意見は「カラオケ法理」を「社会的、経済的側面をも含めた総合的観察を行うことが相当であるとの考え方を根底に置いているものと解される」と評価したうえで、「原判断は、こうした総合的視点を欠くものであって、著作権法の合理的解釈とはいえない」と批判して締めくくっているのだが(7頁)、金築補足意見の説明による限り、本判決の多数意見は、知財高裁判決よりも遥かに「総合的視点」を欠いているのではないか、と思えてしまう・・・。

*11:「枢要な行為」という曖昧な基準だけでこれまでのカラオケ法理の要件に相当するものを読み込もうとするのは、いくら何でも無理がある。

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