必要なのは法改正か?

17日付けの記事として自分がエントリーした記事*1に対し、いろいろなご意見をいただいている。

あの高名な町村先生に、「微妙なコメント」と評されてしまったのは、とっても微妙な(笑)ところなのだが、

「立法論ではなく解釈論で勝負すべき」

という自説は、しばらくは曲げないでおきたいと思っているので、もう一度、ここで“自炊代行”に対する考えを整理して書いておくことにしたい。

「業者が複製に関与したら著作権侵害になる」という解釈の射程

「現在の著作権法では“自炊代行”は違法となる。ゆえに適法化するためには法改正が必要」

というご意見の背景に、これまで当然のように唱えられてきた、

「30条は私的使用をする者が複製をする場合に限られ、私的使用をする者のために複製をする場合(例えば私的使用目的の複製の代行業)は含まれない」(中山信弘著作権法』245頁(有斐閣、2007年))*2

という伝統的通説が存在する、ということは、自分も当然承知している。

これは「その使用する者が複製することができる」と定めた著作権法第30条1項の字句に忠実な解釈といえるのだろうし、「外部者の介入により私的使用の範囲を逸脱する」といった類の説明も頻繁に試みられている*3

だが、そのような解釈(外部の営利業者が関与すれば一切の例外なく30条の対象から外れる)が、何の疑いもなく認められるものなのか? ということは、一度立ち止まって考えて見る必要があるように思う。


確かに、「営利業者がユーザーの持ち込んだ著作物の複製物を大量に作って渡すような場面」を考えれば、「30条の対象から外れる」という解釈も妥当なものだといえるだろう。

しかし、「ユーザーが持ち込んだ一つの著作物を、営利業者が電子化するために複製して、持ちこんだ著作物はそのまま処分してしまう」という事例を考えたとき、これを上記の場面と同視して「30条の対象から外す」という解釈を適用することには、

「大量に私的複製が行われ、権利者に与える影響が甚大となることを防ぐための要件」*4

という「使用する者」要件の性質に照らし、大いに疑問を入れる余地があるのではないかと思う*5

また、「使用する者」の文言解釈の問題にしても、かねてからこのブログで申し上げているように、「規範的な利用主体の認定」が法解釈の一手法として認められ、かつ、“カラオケ法理”*6として、多くの著作権判例で用いられてきたことを考えると、逆に、ユーザーの保有する一の著作物について一度しか複製を行わない(しかもそれは「自分で読むため」である)営利業者ではなく、その業者に複製を依頼したユーザー本人が規範的に「使用する者」と解されることになったとしても、理屈上は何ら不思議ではない*7

そして、このように考えていくと、“伝統的通説”を自炊代行の場合にあてはめること自体が決して当然のことではない、ということに気付かされるのではなかろうか*8

巷ではたまに、「(事業者が複製を行う)一般的な自炊代行は違法だが、店舗に備え付けられた書籍等をユーザーが自ら複製する“自炊の森”的なサービスについてはセーフでは?」という意見も耳にするが、著作権者に与える(悪)影響という点においては、後者の方がよほど大きいのであって、単なる条文の文字面のテクニカルな解釈だけで、このような結論を出すのは、妙なことだと言わざるを得ないだろう*9


以上の点から、自分は、現在の著作権法30条1項の解釈論として“自炊代行”適法論を主張することも、十分に可能ではないか、と考えている*10

「立法論」の危険性

今の“立法論”の危ないところは、「法が必ずしも自分たちの望む方向に変えられるかどうかわからない」という元々の問題点に加え、

「第1項1号で「公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器」の利用を私的使用の対象外とした上で、附則第5条の2でさらに文書・図画の複製を私的使用の範囲内に押し戻す」

という、微妙なバランスの上に成り立っている著作権法第30条に手をつけることの難しさが、必ずしも十分に認識されていない、という点にある。

思うようにならない推進のアクションのために何年も時間を浪費するのはいただけないし、下手をすると附則第5条の2の廃止、といったところにまで飛び火しかねないような法改正のアクションを起こすのは、もっといただけない。

だとすれば、まずは現行法の枠内で解釈論で頑張ってみたほうが良いのではないか・・・というのが自分の意見で、“自炊代行”のような類型を抜き出して条文化するのは難しい、という現実も合わせて考えると、個別の事案ごとに判断を導き出せる解釈論に委ねた方が良いのではないか、という思いがより強くなる*11


まぁ、現実には、今、伝統的通説を使っておられる高名な先生方の何人かが大胆に改説する、といったような事態が起きない限り、なかなか異なる解釈を定着させるのは難しいわけで、どこかの自炊代行業者が自己犠牲の下に、権利者に訴えられて頑張る、といったことでもしない限り*12、状況が変わることを期待しづらい、というのが悩ましいところではあるのだが・・・。

個人的には、どこかで訴えられた事業者なりその代理人なりが、時代の変革者となられることを、微かに期待しているところである。

*1:朝書いて家に帰って見てみたら、考え途中のタイトルのままアップしていたことに気付いたので、タイトルだけ修正しておく(中身はそのまま)。タイトル付きのリンクを貼っていただいた方にはお詫び申し上げたい。

*2:私的使用の範囲について比較的柔軟な解釈を志向されている田村善之教授のテキストにも、「CDやビデオのダビングや、文献の複写を業者に頼んでしまうと、私的使用目的であっても、その複製行為は著作権を侵害する」ということが明記されている。(田村善之『著作権法概説[第2版]』201頁(有斐閣、2001年)

*3:上に挙げた概説書等には、出典があまり明記されていないのだが、立法者意思からして、そういうことだったのではないかと記憶している。

*4:前掲・田村201頁。

*5:電子版と紙版が両方出版されていて、ユーザーがその両方を購入することを期待されているような場合(これからの時代の新刊本)であればともかく、電子版が流通していないし、流通する見込みもないような古いマイナーな書籍等を経った一冊分電子化したところで、権利者に与える影響がどれほどある、というのだろう(段ボールの底に埋もれたままになるよりも、読み直される可能性が増し、さらに同一著作者の著作物を購入する意欲が増す可能性がある、という点ではむしろプラスに働くのではないかとすら思える)。

*6:今後は“ロクラク法理”に置きかえられる可能性もあるが、とりあえず良く馴染んだ方の言葉で(笑)。

*7:なお、媒体変換目的での複製については、MYUTA事件判決の存在をも考慮しなければならないが、元々媒体が変換されることが想定されておらず、複製する際にも専用のソフトウェア等が必要となるMYUTAと、一般的な裁断機とスキャナを使って時間をかければ誰でも行うことができる「電子化」とでは大きな違いがあるように思われ、MYUTAの法理をここで用いるのは明らかにミスリードであるように思えてならない。

*8:もちろん、これは第30条の趣旨を上記のように専ら「権利者の経済的利益保護」という観点から捉えた場合の話で、「私的領域への介入」というプライバシー保護的側面から考えた場合には、必ずしも盤石な理屈とは言えないのかもしれないが、「自分の持っている携帯端末上で読むため」だけに複製を依頼するような場面を想定すれば、この側面から考えても、なお伝統的通説への“疑義”を根拠づけることは可能であるように思われる。

*9:この点においては、まねき、ロクラク判例法理からの類推で、事業者が書籍を自ら購入しなければOK、とする小坂準記=金子剛大「まねきTV・ロクラク2事件最高裁判決にみるコンテンツビジネスの諸問題」L&T52号60頁(2011年)記載の考え方の方が共感できる。

*10:少なくとも企業内複製を30条1項で正当化することを試みるよりは、よっぽど容易に達成できそうなミッションだといえるだろう。

*11:当然ここには法的安定性云々の議論が付いてくるが、カラオケ法理の下でも「明らかにクロ」といえるようなケースは比較的初期のうちに固まった、ということを考えれば、その逆も期待して良いのではないかと思う。

*12:当然ながら敗訴するリスクも極めて高い。

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