第一人者が鳴らす警鐘と、著作権法の未来への希望。

なかなか余裕がなくて取り上げることができずにいたのだが、最近拝読した中山信弘・明治大特任教授(東大名誉教授)の論稿が非常に印象的だったので、ご紹介しておくことにしたい。

掲載されているのは、ジュリスト1461号(2013年12月号)。
1年間連載が続いていた「著作権法のフロンティア」というシリーズの最後を締めくくる「著作権制度の俯瞰と課題」という、中山教授ならではの、壮大なテーマの論稿である*1

ページをめくると、まず、冒頭(1.はじめに)の章から、

「法律家たる者、具体的な解釈論の裏には、常に時代を眺める大きな視野が必要」

として、「大きな視野から著作権制度が置かれている状況と将来を俯瞰」することが宣言され、
これに続けて、現在の著作権をめぐる状況に関し、

「デジタル時代においては、著作権は人々の生活や産業の隅々まで入り込んでそれらの行為を規整しており、今や著作権制度は揺ぎ無い『帝国』の観を呈している。しかしながらデジタル・ネット技術の急速な発展により、『著作権帝国』は余りに急激にその版図を広げたために、統治に苦しんだローマ帝国に似ており、このままだと巨体を持て余して滅亡した恐竜のような運命を辿らないとも限らない。現在、世界的に反著作権思想が燎原の火の如く広がりつつあり、現行著作権制度が全ての人に満足がゆくものではなくなりつつある
「今後の著作権制度は、著作権の強化とネットでの自由を求める運動との相剋の中で苦界の海を漂うことになろう。」(80頁、強調筆者、以下同じ)

と、中山教授特有の印象深いレトリックを駆使した痛烈な批判が、いきなり登場する。

2007年に出された概説書『著作権法』が、「著作権の憂鬱」という章から始まることが如実に表しているように、長年、この分野の第一人者として“変わりゆく著作権”を見守り続けてきた中山教授の憂いが極めて深いものであるのは間違いない。そして、同書中の記述や世に出される論文から、座談会での発言、審議会議事録での発言等々まで、様々な場面で活字化されるものの中に、師のそんな思いが滲み出ていることも多かった。

だが、上記のくだりだけを読んでも分かるように、今回は、そのような思いがよりストレートに伝わってくる。

続く章(「2.著作権制度が置かれている現状」)では、

「一部の専門家・業者を規整するはずであった著作権法が、全ての者を規整する法へと変化したが、その基本的構造に大きな変化がなく、著作権法は増改築を繰り返し、別館や離れを増築して急場を凌いでいるようなものである。」(81頁)

という問題意識を投げかけ、「初音ミク」の二次利用の話題や、「江南スタイル」がネットで流通して世界的な大ヒットとなった話題などを引いて、「大きな変化」が生じていることを指摘しつつも、権利者側のロビーイングの効果ゆえ、「大局的に見れば権利の強化の歴史」になっていることを指摘。

さらにその次の章(3.現行著作権制度の限界)では、欧米での“反著作権思想”の広がり(海賊党、反ACTA、反SOPA運動等)を、かなりの紙幅を割いて紹介した上で、著作権表現の自由を侵す可能性についても言及し、我が国においてフェアユース規定の導入がかなわなかったことに対して、「極めて遺憾」との意を明確に記されている(84頁)。

ジュリストのわずか6頁の連載枠の中の論稿、ということで、いずれのトピックについても最小限の記述にとどめられているが、これらのトピック、特に「フェアユース」に関する中山教授の思いは、今年の8月に出された『石川正先生古稀記念論文集』「経済社会と法の役割」の中に収められている「著作権法の課題‐フェアユースを中心として」(1269頁以降)において、より明確に描かれているので、ご関心のある方は、そちらの方も合わせてお読みいただければ、中山教授の問題意識をより深く理解することができるだろう*2

いずれにしても、ジュリストという一般に流通する商業雑誌に、これだけ鮮明な「警鐘」が刻まれたことに、個人的には大きな意味があると思っている。

未来への提言

さて、既に言及したとおり、今回の中山教授の論稿のうち、ここまでは、過去の論稿やご自身の発言等に表れていた内容とも共通するところが多いものであったが、最後に設けられた「4.新たなる著作権制度を目指して」という章の内容は、将来に向けた提言、ということで、より新しく*3、かつ、興味深いものとなっている。

デジタル時代において、なぜ著作権制度が必要なのか、著作権制度はいかなる機能を果たすべきか、その正当化根拠はどこにあるのか、という壮大な構想に思いを致す時になっているように思える。」(84頁)

というフレーズを皮切りに、「著作権の物権的構成」に対する疑問の声や、孤児著作物の問題や、1つの著作物の上に複数の権利が併存していることの問題を取り上げた上で、権利情報の一元化や権利処理機構の整備、アーカイヴの構築等、1頁半という限られた紙幅の中で、次々と将来に向けて目指すべき方向性を指摘している。

特に、

著作権法の多くの条文は任意規定であるので、契約や業界慣行によりかなりの障害は乗り越えることが可能であり、業界挙げてそのような努力をしなければならない。例えば現在問題となっている出版者の権利の問題も、出版者と権利者が一致して海賊版等に立ち向かえば、現行法の下においてもかなりの対処はできるはずであるが、わが国の業界の自助努力は全く不十分である。」(85頁)

というくだりは、今年の著作権界最大のトピックとなった「出版者への権利付与」問題に対する痛烈な批判であると同時に、他の分野においても共通する課題を直截的に指摘するものと言えるのではないだろうか。

この章の提言についても、紙幅に制限がある今回のジュリストの論稿よりも、前掲・石川古稀に掲載された論稿の方に、より具体的な内容が書かれており*4、そこでは、以下のような印象的なフレーズが散りばめられている。

著作権法は元来が産業政策的立法ではないために、著作権法は経済財という観点からは使い勝手の悪い法であるが、それを現在のデジタル社会に適合すべく解釈をし、また法改正を行う必要がある。」(1290頁)

「現在の著作権法ベルヌ条約による規制もあり、著作権法の大きなリフォームを行うことは現実問題として難しいが、ベルヌ条約の軛から離れて、より一般的な研究を始めなければならない時が到来しているように思える。」(1291頁)

「わが国の人口が減少し、しかも海外企業との競争に晒されるというデジタルの特性をあわせ考えると、日本の企業は立ち行かなくなる恐れもある。沈み行くタイタニックの中で一等席を争うようなことを止め、よりスケールの大きい構想を持つことが要求される。そのためには、著作権制度、あるいは著作権を巡る慣行を改めて考え直さなければならないと考える。著作権スキームは、法律と商慣行の双方において、既存の枠組みだけで捉えていては、確実に世界から取り残される。法規制だけではなく、ビジネス・モデル、商慣行等々の方法で、スケールの大きい構想の下に世の中を変えてゆかねばならないであろう。」(1293頁)

現状の分析に比べると、「どう変えていくか」という話については、まだまだこれから検討すべきことが多い、というのは、中山教授ご自身も認めておられるところであり、現時点においては、上記『石川古稀』でも、ジュリストでも、新たな道、については、その“方向性”が明示されるにとどまっている。

フェアユース規定導入のような大胆な立法策が良いのか、それとも権利制限規定の解釈論を根底から組み立て直すべきなのか、あるいは、“Torelated Use”のような、法解釈の枠外の慣行的、思想的なところに打開策を見出すのか、いろいろ考えるべきことは多いとは思うのだが、いずれにしても“ここからが勝負、かつ正念場”であることは間違いないところ。

2013年の最後の月に掲載された今回の中山教授の論稿を一つのきっかけとして、間もなく訪れる2014年が、著作権法再生元年」として、後々定義づけられるような年になることを、心の底から願うのみである。

石川正先生古稀記念論文集 経済社会と法の役割

石川正先生古稀記念論文集 経済社会と法の役割

*1:ジュリスト1461号80頁以下(2013年)。

*2:この論文の中で、中山教授は審議会報告書の3類型(特にC類型)を「実を捨てて名を取ったフェアユース」と指弾し、さらに平成24年改正法が「更にトーンダウンされ」「名も実も捨てたフェアユース」になってしまった、と嘆かれている。おそらく執筆された時期の関係もあってか、細かい解釈論については、若干立法担当者の解説等と噛み合わないところもあるように見受けられるが、フェアユース規定導入の意義として「著作権法の世界に自己責任の原理を持ち込む」という点を指摘し、「お上から合法であるというお墨付きを得てから行動するのではなく、まず自己がフェアと考える行動をし、それに異論のある者が現れた場合には法廷で決着をつけるということを意味し、そのことは法や裁判に対する国民の意識の変革をも迫る可能性をも秘めている」(1284頁)と述べられるなど、フェアユース規定の根底思想に立ち返った記述は興味深い。

*3:とはいえ、こちらの内容についても、今年出された「出版者への権利付与」に関する論稿等の中で語られていたものではあるが。

*4:石川古稀では、1290頁以下に「壮大なヴィジョンの欠如」という章が設けられ、4頁にわたって将来に向けた課題、提言が記されている。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html