「不調和な結末」から考えさせられた「大事なものの順番」。

先月19日に公開され、封切り3週にして興行収入が60億円に迫る勢いとなっている新海誠監督の最新作、「天気の子」。
封切後の口コミとリピーター続出で250億円まで到達した「君の名は。」と比べるのはちょっと気の毒だが、この3連休の間も大規模シネコンで2スクリーン以上押さえて、各回満席、という状況だから、歴代ベスト10に入ってくるくらいのところまでは伸びてくるのだろう。

この映画に関しては、既に様々な角度からの論評が世に出されていて、純粋にエンタメとして楽しんだ、というものや、登場人物の心情に深く思いを馳せて共感を寄せる感想は今回も多く出ている一方で、結末のあまりの予定不調和ゆえに、その「逆」の感想や戸惑いの声が上がっているのも本作の特徴といえるだろうか*1

自分も、場面場面では爽快感を抱きつつも、見終わった後のモヤモヤ感をどうしても拭いきれないところがあったし、それ以上に「大ヒット後の新作」という猛烈なプレッシャーの下で作品を送り出さないといけなかった「作り手側の”迷い”も、どことなく伝わってくるような作品ではあったので、以下、これだけのスケールの大きな作品を封切りまで持ってきた新海誠監督の功績に敬意を表しつつ、思ったところを書き残しておくことにしたい。

※以下、ネタバレあり。

エンタメ作品としての満足度は十分。

いろいろ言われてはいるけれど、自分が観た限りでは、本作もこれまでの作品と同様に、風景、人物の描写の細やかさは際立っていたと思うし*2、ストーリーのメリハリとか起承転結、クライマックスシーンの迫力もこれで十分、というレベルだったと思う。

前作に続いてRADWIMPSが手掛けた音楽も(柳の下の二匹目・・・という突っ込みは当然あり得るところだが)、実に効果的だった。

強いて”らしくない”ところを挙げるとすれば、「序盤の伏線を終盤で効果的に回収する」というこれまでの手法が今回あまり使われていない、というか、あまり効いていないように見えるところで、「序盤に投げ捨てたものがクライマックスシーンで目の前に転がっていた」というのがほぼ唯一、と言ってよいくらい。

序盤で「取材」する際に出てくるあれこれが物語の核心にかかわってくる、というところもそれにあたると言えなくはないのだが、勘の良い人ならすぐに気づくような話だし、ストーリーの中でも、2時間近い映画の半分くらいの時間を残している時点でストレートに出てきてしまうので、「伏線」というにはちょっと見えすぎている。

「作品」のスタートラインが変わって”横綱”的なポジションでお客さんを集めないといけなくなったがゆえに、「誰にでも分かりやすい作品にする」というバイアスがかかったのか、それとも、新海監督自身が公式ガイドブックの中で語っておられるような「度々のストーリー変更」によって、映画のストーリーの中で細かい作り込みをする余裕がなくなってしまったのか、あるいはそれ以外の理由によるものか、本当のところは全く分からないのだけれど、「君の名は。」を初めて見た時の「こんな筋の映画だったんだ・・・!」的な興奮*3を期待していくと拍子抜け、というところはあるかもしれない。

個人的には大きな山でどんでん返しをくらわすのも、小さな山・谷を並べてハラハラを持続させるのも、エンタメの手法としてはどちらもありだと思っているし、後者の手法としては良くできた作品だと思っているのだけど・・・*4

「貧しさ」の描き方と「擬似家族」性から連想される何か。

さて、本作品の中で異彩を放っているのは、登場する人々の「決して豊かではない」生活の描写である。

主人公の少年少女に関しては、どちらも様々な事情を背景に抱えている、という設定からスタートしているので、主食がカップ麺の貧乏生活の描写も、姉・弟2人の生活の描写も、ストーリー展開的にそんなに違和感なく受け入れてしまっていたところはあるし*5、決して成功しているとは言えない大人たちの描写にもそこまで違和感はなかったのだけど、登場人物たちがだんだん「擬似家族」みたいな雰囲気になってきて、でも、そのうち警察に目を付けられ、やがて追われてバラバラに・・・みたいな展開にまでなってきたところで、ふと頭の中をよぎったのが、是枝裕和監督のあの話題作だった。

いや、カンヌを取ったあの作品に比べれば、背景の深刻度合いとか、「家族」としてやっていることの性質とかは全然桁違いではあるのだけれど、終盤、芝公園で須賀一家と主人公たちが遊んでいたシーンとか、主人公の少年と姉・弟がホテルで仲良くカラオケを歌っていたあのシーンを見て、「万引き家族」の中の「仲良く海水浴に行ったシーン」がなぜかラップしてしまったのは自分だけだろうか・・・?*6

万引き家族」に対する評価がかなりくっきり分かれているのと同様に、本作品での「貧しさ」の描き方や「自分たちだけで生きる」的な逃走劇の描き方に関しても、賛否両論はあるところだと思う*7

公式ガイドブックの新海監督のコメントの中に「社会自体があの頃(筆者注:「君の名は。」の頃)とは違っていて、日本は明確に貧しくなってきている。」というフレーズまで出てきているのを見て、監督はそこまで意識してあの一連のシーンを入れたのか...と驚かされたところはあったのだが、自分が好む新海監督作品の主題は、ほぼ例外なく「標準的な生活を送る人々の微妙な心理の描写」だっただけに、小津安二郎が突然大島渚になった」的な感覚もまたある、ということは、正直に告白しておきたい。

「予定調和」と「予定不調和」の不協和音?

本作品で、一番物議をかもすところがあるとすれば、やはり「東京水没」を選択した主人公の行動と、それを生々しく描いてしまったラストの場面だろう。

もちろん、前作でも彗星が落ちてきて町を壊滅させる、という、公開の数年前に起きた”災害”を彷彿させるシーンはあったが、ストーリー的にはすべてが「最悪の事態を回避する」方向に動いていたし、クライマックスシーンを経てそれが首尾よく成功したことによって、その場にいた観客は、間違いなく安堵と一瞬の爽快感に浸ることができた。そして、事細かに再現されていた「東京」は、日常も含めて何も変わらなかった、というのが、前作の一つのカギでもあった。

それが今回は、見事なまでに「沈む」
しかも、主人公自身の選択によって。

あくまでアニメ作品、しかも「フィクション」であることが明らかな作品において、ストーリーの不合理性に腹を立ててとやかく言うのは、あまりお得な鑑賞態度ではないと自分は思っているし、新海監督自身が「『君の名は。』を踏まえつつも、迂回して別の場所に行かなければいけない」(公式ガイドブックより)という思い(一種の強迫観念のようなものかもしれない)であのラストの形を選択した以上は、とやかく言っても始まらないだろうと思う。

ただ、ストーリー上、「社会の常識や最大多数の幸福」を主人公と「真に対立する価値観」として犠牲にする(公式ガイドブックの新海監督コメント参照)、という大胆な「予定不調和」をやってのけながらも*8、3年経っても、主人公たちの心の中と生きている世界だけは「変わらない」というのは、どうにもこうにもむず痒さが感じられてならない。

「秒速5センチ」の、昔の思い出を女々しく抱え続ける*9主人公にしても、「言の葉」で年下の男の子の心をかき回す*10主人公にしても、物語の中では非常に限られたところで世界が完結してしまっているし、それがまさに新海誠監督の本来の世界観なのではないか、と自分は勝手に思っているのだが、世界が狭い分、自分の身近なところにいる人間以外にはほとんど迷惑をかけていないわけで、だからこそ観る側も、スクリーン上のそういったプライベートな世界でのあれこれを眺めることに安心して没頭することができる。

本作品の主人公の少年・少女も、彼ら二人と、その近くにいる身近な人間だけ切り離せば、最初の出会いからラストの再会まで、実に「予定調和」的な関係性を辿っているわけで、新海監督作品の美しい系譜にそのまま連なるはず。

だが、その「予定調和」を堪能するにしては、主人公たちの「外」の世界で描かれている「予定不調和」があまりに大きすぎて、いくら「フィクション」だとはいっても、ギャップの大きさに頭がクラクラしそうになるところは、どうしても出てきてしまうのである*11


おそらく、作品への商業的な期待が高まれば高まるほど、ストーリーの起承転結の激しさや、スペクタクル性への要求は大きなものになっていくだろうし、一方で、「東京」の情景のより緻密な描写も求められていくことになる*12。さらに、「ファン」の期待に応えるための様々な細かい仕掛け*13も入れていかないといけないし、そういったサービスをしつつ、全体としての(映画・アニメ初心者向けの)「分かりやすさ」を追求することも欠かせない。

そして、作品が興行的に成功を収めれば収めるほど、群がってくる関係者が増え、ストーリーから舞台設定まであれこれ口を出されることが多くなる、ということも容易に想像がつくところである。

本作品に出てくるセリフの中に

(人間年を取ると)「大事なものの順番を入れ替えられなくなる」 by 須賀圭介

というのがあって、実際このポリシーに基づく須賀の行動が物語の大きなヤマを作っていくことになるのであるが、自らとほぼ同年代という設定の人物に語らせたこのフレーズに新海監督自身がどういう思いを込めたのか。そして、新海監督自身の「大事なものの順番」がどうなっていて、それが本作品の中でどこまで実現できたのか。

ファンとしては、「これいいなぁ」と思った数年前までの作品を見て、「これ以上何も足さず、何も引かないでください」(帆高のセリフより)と言いたい気持ちはあるのだけど、大規模興行作品を作り続けようと思ったら、足し算・引き算はもちろん、掛け算・割り算までしないといけなくなるわけで、監督自身がそれにどこまで付いていこうとされているのか、いずれどこかで、本作品の評価が定まった後にでも知ることができればな、と思うところである。

*1:このほか、前作同様、他の著名アニメーション映画等との比較の見地からの厳しい論評も見かけるのだが、それって「ボリウッドミュージカルにクラシックバレエの要素がない!」と怒るのに近いところがあって、そもそも勝負している土俵が違うでしょ、と思うところもあるので、識者の意見は尊重しつつ、あまり踏み込まずに済ませることにしたい。

*2:神宮外苑花火大会のシーンだけで、大型スクリーンに観に行く価値はある、と自分は思った。

*3:だからこそ、劇場で二度三度見よう、という人も続出した。

*4:これがもし、謎を謎のまま引っ張って、「後はオフィシャルの解説本なり小説を読んでくれ」というエヴァンゲリオン的な戦術なのだとしたら引いてしまうところはあるが、そうではないと信じたい。

*5:大体、自分もそんなに裕福な家庭で育ったわけではないし、女の子の方は、古びたアパートと言っても山手線の内側に住んでるわけだし・・・。

*6:いったん刑事に捕まった後に、「実は彼女は○○だったんだよ」みたいなことを初めて聞かされて知る、という展開にも、ありがちな展開とはいえ既視感があった。

*7:しかも「万引き家族」では、最後に当事者が維持しようとしていた”フィクション”の世界から思いっきり常識的な現実に引き戻されるが、本作品は(多少の現実感を出しつつも)あくまで最後まで”フィクション”の世界が維持されているように思えるだけに、なおさらだ。

*8:実際、「罪責」についてあれこれ論じられてしまうくらい、主人公が反規範的人格態度を表面に出して行動するシーンは多い(「天気の子」の刑法的考察ー逃走罪の観点からー - アホヲタ元法学部生の日常もご参照のこと)。「君の名は。」の変電所爆破も行動だけ見ればシャレにならないレベルの犯罪だが、一応そこには「町を救う」という大義があった。一方、本作品の主人公の行動には、「自分たちが逃げる」「好きな子を助ける」という以上の動機はないように見受けられる。

*9:そしてそれゆえに大なり小なり共感できる。

*10:と言ってしまうと怒られてしまいそうだが、そういう一面のあるストーリーであることは否定できないはず。

*11:このクラクラ感にもちょっとした既視感があって、先の選挙で「1つ1つの公約は当事者にとっては意義のあるものだが、全部実現しようとすると国家財政が確実に破綻する」公約を掲げていた某政治団体(現政党)に対して抱いた感覚に非常に近いものがあるな・・・と思った次第。「政権交代」がフィクションに留まっている間は「それでもいいじゃないか」と支持する余地はあると思うのだけど、その可能性がリアルになればなるほど、違和感も顕在化することになる。3年後の日本の「沈没」がその暗喩?というのはさすがに考えすぎだろうが。

*12:この点に関してはスポンサーの意向等も大なり小なり反映されているのではないか、と思わず邪推したくなるくらい、今回は前作以降にエスカレートしていたところがあった。

*13:他の作品に出ていた人物をこっそり登場させる等々、「踊る大捜査線」シリーズなどで、クドイくらいに使われていた手法である。